安藤まなのてきとー日記

22歳 発達障害の母の日記です

産後うつだった私

昨日テレビを見ていたら、メイプル超合金の安藤なつさんが昨年結婚されていたことを知った。昨年はかなりテレビやネットニュースを見ていたはずの私がなんでそのことを知らないんだろうと不思議に思って調べてみたら、結婚された日がちょうど私が息子を出産した病院を退院する日だったことが分かり、それは知るわけないわと納得した。

あの時は精神的にも身体的にもかなり辛かった。実家にいて、テレビを見ているととても悲しい気持ちになった。テレビでは私が出産する前と後で当然のように毎週同じ番組を放送している。そんなテレビを見ていると、私は出産して生活が、もっと言えば人生が一変してしまったのに、私の周りでは以前と何の変わりもない時が流れているということが感じられて、すごくむなしい気持ちがした。自分だけ世界から取り残され、そこから一生抜け出せないような気持ちになっていた。私だけ実家という監獄に息子と共に閉じ込められてしまったような気持ちだった。そんなことが感じられてしまうテレビやTwitterを見るのがとても辛く、毎日開いていたTwitterは全く開けなくなってしまった。

あの時はこの気持ちが一生続いて、絶望的な気持ちをずっと抱えながら人生を歩まなければいけないのだと思っていたが、今思えばあれは完全なる産後うつだったのだなと思う。1日のほとんどの時間泣き続ける子どもの相手をし、1日に3時間くらいしか寝られない状況が続けば、誰だってそうなってしまってもおかしくないと思う。里帰り出産で、産後はしばらく実家にいたのだが、母親がパートに行ってしまうため昼間に実家に1人になってしまう日は、日中夫が育児を手伝いに来てくれた。夜になり、家族がみんな帰ってきた後に自分の家に帰ってしまう夫を見て、「夫は夜にちゃんと1日が終わって良いな。私はこれからまた長い戦いが始まってしまって眠ることすらままならないのに」と恨めしい気持ちになった。夫に不満を抱いたことは出産する前はほとんどなかったのに、そんな気持ちになってしまう私が少し恐ろしかった。

しかし、今は普通にテレビも笑って見ることが出来るし、Twitterも開くことができる。生活が変わってしまったことに何ら変わりはないけど、絶望的な気持ちにも、悲しい気持ちにも、むなしい気持ちにもならない。それに心から息子が可愛いと感じることが出来る。

安藤なつさんが結婚されたことを知ったのも、テレビのバラエティ番組だった。それを私は夜ご飯を食べながら、夫と夫に抱っこされた息子と見ていて、「おめでたいねー!」と自然に言うことが出来た。その時に、私の精神は通常に戻ったんだということが感じられて、本当に良かったと安心することが出来た。

産後うつになってしまったとしても、1日1日をなんとか、ギリギリの状態でも乗り越えていければ、いつかはまた出産する前のように笑えるようになって、子どもの成長を楽しみに生活することが出来るようになるのだと実感した。そんなことを産後うつの時の私に言っても絶対に信じてもらえないだろうけど。今は息子と夫と3人で生活するのが楽しい。産後は本当に色んなことがあったけど、常に隣で支えてくれた夫と、いつも可愛くて、日々成長を見せてくれる息子に感謝している。これからも息子の成長を楽しみながら生活していきたいと思う。

ありがとう、しょぼい喫茶店

本日を持ってしょぼい喫茶店が閉店しました。

 

 最後にしょぼい喫茶店を訪れたのは9月の初め頃。その頃私は妊娠8ヶ月で、もうだいぶお腹は大きくなっていました。その後も何度も訪れたいとは思いましたが、大きいお腹で荷物を持って駅からお店まで歩くのが困難になってしまったため、行くことは叶いませんでした。それでもTwitterでしょぼい喫茶店が営業しているツイートを見ては勝手に励まされていました。

 

しょぼい喫茶店に訪れたことがきっかけとなり、私は夫と結婚することとなりました。結婚してしょぼい喫茶店が遠くなってしまった後も、私にとっての心の拠り所であることに変わりはなく、用事があって東京を訪れる度に足を運んでいました。そこでえもてんさんとおりんさんや、顔なじみの常連客の方達とお話しすることが、私にとっての数少ない楽しみの一つでした。閉店することとなり、寂しい気持ちは多分にありますが、同時に、私はもうしょぼい喫茶店がなくても生きて行けるという気持ちにもなっています。だから、私にたくさんのものを与えてくれたしょぼい喫茶店に、笑顔でさよならとありがとうを言いたいです。このような場所を作り、1年以上もの間その場所を守ってくださったえもてんさんとおりんさんには感謝の気持ちしかないです。本当にありがとうございました。そして、お疲れ様でした。

 

もし、しょぼい喫茶店が存在していなかったら、きっと今の私はないと思います。それくらい私にとっては大切な場所です。それはこれからもずっと変わりません。私の心の中にはずっとしょぼい喫茶店が、存在していたあの時のまま残り続けるのだと思います。たくさんの楽しい思い出と共に。しょぼい喫茶店、今まで本当にありがとう。そしてさようなら。

 

 

 

出産を終えて

2020年最初のブログは、私の出産について書こうと思う。

唐突だが、去年の11月に元気な男の子を出産した。

 

妊娠中はなんだかんだ忙しく、ブログを更新する暇が無かった。そもそも家族以外の友人知人(本当に親しい人を除く)に妊娠を報告したのも、7ヶ月に入った頃だった。あまりお腹が大きくならなかったため、誰と会っても妊娠に気付かれることがなかったからだ。

 

妊娠発覚から出産を経て今の生活に落ち着くまでは本当に書き切れないほど様々な事があったが、今は生活もだいぶ落ち着いた。ここで1度自分の思っている事を整理しておこうと思ってブログを書いている。

 

私は元々子どもが好きだった。3歳下の弟の面倒をよく見ていたことが影響しているのだと思う。街中で赤ちゃんや小さい子どもを見かけると可愛くて幸せな気持ちになった。自分もいつか子どもを産んで育ててみたいと漠然と考えていた。結婚をし、子どもを産むことが現実味を帯びてきた。しかし、まだ若いかなという気持ちや、もう少し生活が落ち着いてからにしたいという気持ちが強かったため、もう少し先で良いと思っていた。出産に踏み切ったのは夫の強い要望があったからだ。元々私も子どもを産んで育ててみたい気持ちがあったし、夫の話を聞いているうちに先延ばしすることにあんまりがないような気がしてきたのだった。

 

そして3月初旬、妊娠していることが発覚する。嬉しさもあったが、どちらかというと不安の方が大きかった。妊娠中の不安というと、大抵は五体満足で産まれて来てくれるだろうか、何事も無く無事に出産出来るだろうかというものが多いと思うが、私は出産に対する不安よりも、そこから始まる育児に対しての不安が大きかった。悪阻真っ盛りの3月は動く事が出来なかったため、ネットで育児の情報を調べて集めまくった。しかし、そんなことをしても不安は増大するばかりだった。その事を夫に話すと、「育児に不安がない人なんているわけないじゃん。大丈夫、俺も手伝うから。」といつも言われていた。それを聞いて、いつも「まあそれもそうだな」と思う私なのであった。

 

妊娠が分かり、とりあえず親に報告しなければと思った。3月下旬、夫と私と私の両親で会う機会があり、そこで妊娠した事を報告した。この時の事を過去の私は書き残している。以下の『』内は過去の私の記録である。

『おめでとうの一言もなく、瞬く間に母は私を責め立て始めた。「子どもを育てるって物凄く大変なんだよ、あんた分かってる?!」「あんなに大変なことあんたに出来るわけないじゃない!」「何も考えてないでしょ!」などと、同じような事を2時間近くずっと繰り返し責められていた。素直に受け入れてくれないだろうということは分かっていたが、私も夫もそんなに激昂されると思っていなくて、かなり驚いてしまった。結局何も言い返せないまま一方的に言われるだけ言われてその日の会食は終了する。』

 

この時はなんてひどい事を言うのだろうと思っていたが、今から思い返せばこの発言は非常に的を得ていると思う。やはり20年間育てて来ただけあって母は私のことはなんでも分かっている。それにしても言い方はかなり強かったが。

 

『この後夫は家に帰ったが、私は次の日の通院のために実家に泊まることになっていたので、両親と一緒に実家に帰った。当たり前だが帰っても地獄だった。母の激昂は止まるところを知らない。実家でも、会食の時と同じようなことを繰り返し言っていたが、「あなたは嫌なことがあるとすぐ逃げる性格で、今まで色んなことから逃げて来たけど、子育ては逃げるわけにはいかないんだよ!」と言われた。』

 

この発言もズバリその通りだ。その通り過ぎてすごい。今までなんだかんだ理由を付けて誤魔化していただけだったが、私の人生はまさに逃げてばかりの人生だ。何かをやり遂げたことなんて一つもない。それを誰かのせいとか、何かのせいだと思い込む事で自分を正当化して生きて来たのだった。私はその事実にきちんと向き合う事なく、向き合おうともしなかった。出産して初めて、何で私は自分と、自分の人生ときちんと向き合う事なくここまで生きて来てしまったんだろうと絶望的な気持ちになった。もっときちんと自分と向き合って自分のこれからの人生について真剣に考えるべきだったと後悔した。記録はさらにこう続く。

 

『母は不安なことがあると眠れなくなってしまう性格なので、この日は3時くらいまで起きていた。私も眠れなくなってしまってそのくらいまで起きていたのだが、眠れない母は夜中に何度も私の部屋に来て、言いたいことだけ言ってまた寝室に帰ることを繰り返す。2人とももう絶望的な気持ちになって泣いていて、私にとっては人生で一番辛い夜だった。私は精神的に追い詰められてしまい、もうこのまま死んでしまいたいような気持ちになっていた。』

 

いやいや、んなわけあるかい!と当時の自分に全力で突っ込みたい。そして、出産してからの方がよっぽど死にたい気持ちになったし、数週間は死にたい以外の感情がほとんど無くなってしまったわ!と続けたい。私はあまり関係の良くない実家に里帰り出産したのだが、里帰り出産を終えて自宅に戻るまでは本当に死にたいという思いが常に頭の中にあったくらいだ。まあ今はこんなことが言えるくらいまでには回復し、死にたいとは全く思わなくなったが。むしろ今は息子を育てるために絶対に死ねないなあという気持ちだ。里帰り出産については決める時も帰る時も色々と揉めたので、これはまた別の機会に書こうと思う。

 

とまあ、ここまで書いたらお分かりいただけると思うが、育児の大変さというのは想像を絶する。想像を絶すると一言で言えてしまうと大変さが伝わらないほど想像を絶する大変さだ。私は妊娠中、出産や育児について書いた本や雑誌を割とたくさん読んでいたのだが、はっきり言ってあんなもの読んでも何も分からないと言っても過言ではない。本や雑誌を見て「大変だ」と思うのとその大変だと思ったことを実践するのでは天と地ほどの差がある。「寝る時間がない」と分かっていたとしても、実際に寝られない生活を送ることがどれほど辛いのかは分からない。それに大変なことは寝られない事だけではない。授乳も想像を遥かに超える大変さだ。しかもこの大変さは実際に出産して授乳してみないことには分からないのだ。ちなみに寝られないことの辛さや授乳の大変さは私が読んだ本にきっちり現実と同じように書かれていた。しかし、その大変さは実際に出産して育児してみないと分からないのだ。本当に恐ろしい、、、

 

私は出産した翌日に母子同室で息子と一晩過ごしたところ、夜ほとんど眠らず、早朝4時から3時間連続で泣き叫び続け、何をやっても泣き止んでくれない我が子を前に途方にくれ、疲れ果ててしまい、朝起き上がるのも苦しいくらいだった。息子がほとんど夜通し泣いていたので結局この日は1時間しか寝られなかった。この一晩で子どもを育てていくことの大変さを痛感した私だった。

 

大体、普通の精神状態の人でも産後は鬱になる人が多いのだから、精神に疾患を抱えている人が育児をしたら死にたいしか考えられなくなることなんて容易に想像出来る。幸せ過ぎて脳内お花畑だった私には想像出来なかったが、、、出産してから私はめちゃくちゃ脳内お花畑だったんだという事に気付き、その時の自分を呪いたくなった。現実はそう甘くない。精神に疾患を抱えている人には産まない方が良いとは言わないが、相当な覚悟が必要だと言いたい。大半の人は死にたいと思ってしまうのではないかと想像する。あくまで私のただの想像なので実際はそうでもないかもしれないが。

 

こういう事を書くとこれから子どもを産もうと考えている人や妊娠中の方に不安を与えてしまうかもしれない。私も実際に出産する前は同じような事を言ってくる人を鬱陶しく感じていた。そんなに脅して何がしたいんだよとさえ思っていた。しかし、今なら分かる。あれは私のことを思って言ってくれていたのだと。私のことを心配しているからこそ出た発言だったのだ。まあ、当時の私にはそんな事は分からなかったが、、、

 

結局何が書きたかったのかよく分からなくなってしまった。とりあえず、里帰り出産を終えて、今までうざったくしか思えなかった親はいつも私のことを思ってくれていたんだなあという事を痛感した。そして育児の大変さも。ここまで大変大変言っていると、私は息子のことを愛していないのではないかと思われそうだ。しかし、私は息子を心から愛しているし、育児は私なりに一生懸命やっているし、何より息子はとてつもなく可愛い。現在2ヶ月くらいだが、最近、泣いている時に私が近寄るとそれだけで泣き止んで、これ見よがしに「あうー」や「うー」や「あぐー」などの喃語を連発しながらこっちを見て笑うようになった。夫にはやらないので、やっと私がママであることを認識出来るようになったみたいだ。通常でも可愛いのだが、笑うとそれはそれは可愛くてしょうがない。ネットでこっちを見て笑いかけてくる息子が可愛すぎて宇宙まで飛んでいってしまいそうだと言っている人を見かけたが、本当にその通りだと思う。他の赤ちゃんも可愛いが、やはり自分の子は格別だ。今はそう思えるくらいまでに精神が回復した。その為に尽力してくれた夫には本当に感謝している。ここまで来るまでに本当に色々な事があったので、また時間があれば出産の時のことと、その後の育児についても書きたいなあと思っている。

 

母親の幸せと私の幸せ

一昨年くらい、私が好きな女性アイドルグループのメンバーの一人が、成人式を迎えた時に母親にこんな言葉を送りました、母親はこう返してくれました、とても感動的な会になりました、みたいなブログを書いていて、とても感動して、母親に話した。そしたら、「私はそんな事言われても何にも感じない。いくら感謝されても足りないから。あんたみたいな欠陥品育ててきたのは並大抵の苦労ではなかったし、私の親としての無償の愛があったから出来たけど、他の親だったら育児放棄してた可能性が高い。私が母親でここまで育ってこられて良かったね」というようなことを言われた。

まあ、同じような事は特に高校を中退してからそれまでも言われたことがあって、「ああ、私って本当に欠陥品なんだな、だから言われてもしょうがないな」と思っていたけれど、この時は、その子のブログを見て、私もそんなふうな成人式迎えられたら良いなあと思って母親に話したので、かなりショックがデカかった。私はハートフルな成人式を迎える事も出来ないのか…と落ち込んだ。

そんな事を言われた時に「私は自分で生まれたくて生まれてきたわけじゃない!!」って言うことも出来たんだろうけど、なんか母親がとてつもなく可愛そうだったのと、何より、その言葉を口にしてしまったら、人生全然何も上手くいかないけれど、頑張って普通を目指して生きてきた自分の努力が水の泡のように消えていって、今まで必死に守ってきた何かがガラガラと音を立てて崩れ去ってしまう気がしてとてもそんな事言えなかった。

母親からしたら、私達子どもは所詮自分が身につけるアクセサリーみたいなもので、本当はダイヤモンドのネックレスが欲しかったのに、それがガチャで当たるかもしれないと言われて鼻息を荒くして引いてみたら、ニセモノのガラクタだったみたいな感覚なんだろうなと思った。

そして母親は無理をさせてでもダイヤモンドのネックレスにどうにかして近づけようとしていた気がする。

私も最初はダイヤモンドのネックレスになろうと、途中からはもうせめてガラクタからは抜け出そうと必死に頑張ったけど、結局そんなこと出来るわけなくて、どんなに努力したところで絶対になれないものにずっとなろうとしていたんだろうなと思う。そうやって頑張ってきたから本当に人生全てが辛かった。

学校にもちゃんとは通えず、社会から孤立してしまっていて生きていて関わる人がほとんど家族しか居なかったから、主張の強い母親の価値観に完全に支配されていて、限界まで頑張って、他人に褒められて羨ましがられるような暮らしをしなきゃいけないのだと思っていた。今となっては、それをやって喜ぶのは、実際母親だけだったのだと思うけど。

最近、人間って辛いか幸せ、どちらかがベースにあるけど、辛いがベースの人にも楽しい瞬間、幸せだと思える瞬間はあるだろうし、幸せがベースでも、どうしようもなく辛くなってしまうこともあるだろうなと思うようになった。でも、1年前、実家の環境に耐えきれなくなって家出をする前の私の人生にはただ本当に楽しいだけの時間っていうのは存在しなかった。そんなわけないと思われるかもしれないけど、例えばほとんどの人が楽しいであろう遊園地に仲の良い友達と行ったとしても、楽しいという思いはありつつも、心の片隅に「頑張らなきゃいけないことがたくさんあるのにこんなことしていて本当に良いのだろうか」「本当は家で勉強していなければいけないんではないか」という気持ちが存在していて、100%楽しむことが出来なかった。家で好きなゲームをしていても、「こんなことやっていないで本当は将来のために勉強しなければいけないのに」と思っていた。あの頃は「自分の限界まで頑張る」ことが及第点だったのだと思う。だからそれ以外はなんの価値もなかった。たとえ95%頑張ることができたとしても、私にとってはなんの価値もなかった。

中学1年生の時、中学受験を最後まで全力でやり遂げることが出来なかった悔しさと、これから頑張って人生を建て直そうという強迫観念で、相当精神を病んでしまい、病的なほどに勉強していた。平日は学校から帰って4・5時間、休日は10時間くらい朝から晩まで食事とお風呂の時間以外は全て勉強していた。中学1年生でそんなに勉強する内容がないだろと思われそうだ。確かにない。だから私は全ての科目において問題集の同じ問題を30回くらいは解いていたと思う。途中からもう問題集の答えは全て覚えてしまっていた。もう本当に意味のない勉強だった。ただ、この時は精神が完全に破滅してしまっていて、縋るものが他になかったのではないかと思う。何かに取り憑かれたように勉強していた。

そこまで自分を追い込めたことがあるという経験がそれからの私の人生をもっと苦しめることとなった。中学1年生の頃はあんなに勉強出来ていたのに。あれぐらいやらなきゃダメなんだ。学生時代はずっとそう思って生きていた。

 

でも、この1年でインターネットで知ったコミュニティに顔を出してみたりして、色々な人に会って、色々な価値観を知って、別にそんなに必死に頑張らなくても生きていていいんじゃないかなと思うようになった。自分を限界まで追い詰めて頑張る必要なんてどこにもない。自分の考え方がそうさせているだけだ。楽な方に流れて行くことを悪いと思う人が世の中多いと感じるけど、楽な方に逃げて何が悪いのだろうか。どんな生き方でも、他人に迷惑をかけずに、ちゃんと生活していけたらなんでも良いのではないか。私は自分を限界まで追い詰めて頑張って、お金をたくさん稼いで、立派な家に住んで、ブランド物をたくさん身に着けて、周りに自分を尊敬してくれる人がたくさんいて…といういわゆる「幸せ」といわれる暮らしより、無理をしない範囲で頑張って、しょぼい家に住んで、しょぼいご飯を食べて、しょぼい服を着て、でもそうやって生きていけることに感謝して幸せを感じられる暮らしをしたい。愛する人が隣で一緒に同じような幸せを分かち合ってくれたら、もうそれ以上に望むものなんて何もない。それがずっと自分を追い詰めて「成功」とか「成長」とかを求めてずっと生きてきてた私がたどり着いた答えだ。

そう考えられるようになったら、ずっーと胸を支配していた生きづらさとか苦しみが消えていって、毎日が基本的に幸せだし、心から楽しいと思えることもいっぱい出来るようになった。もちろん辛いことが全てなくなるわけではないし、これからも辛いことはたくさんあるのだろうけど、日々の小さな出来事に感謝して、少しずつでも幸せを感じることができたら、もうそれで十分だと思う。だから、これからも小さな幸せや楽しみを積み重ねて生きていきたい。

私の精神が崩壊した時の話と、その経験から思うこと

中学校の頃は一番精神がやばかった。2週間に1回田舎の各駅停車しか止まらない寂しい駅から徒歩で20分くらい山登りして児童精神科に通っていた。中一〜中二にかけては、診療の最後に必ず精神科の先生に「入院してく?」と言われていた。その医者は本当に重篤な精神病患者しか診ていない先生だったから、診察で雰囲気がものすごく暗くなってしまわないようにわざと少しおちゃらけて話す先生だった。精神科医にはそうい人が多いらしい。だから私はその頃はただの冗談だと思っていたのだけど、医者と親からすれば八割型本気だったっぽい。入院とは、もちろん閉鎖病棟への入院のことだ。そこは児童精神科では結構有名な病院で、閉鎖病棟を所持していた。私は中学校に通いながら通院していたので、基本的に夜の19時とかに予約をとっていたのだが、診療を待っている間に、男の子の大きな叫び声が聞こえたり、閉鎖病棟精神科医が大慌てで走って向かったり、泣きじゃくっているパジャマ姿の女の子が医者と看護師に両脇で支えられながら病院内を歩いたりしているのを目にしたこともあった。その頃は閉鎖病棟がどんな恐ろしい場所なのかなんて想像することも出来なかったけれど。私は通っている中学校に通えなくなるのが嫌だったから断固として入院を拒否していた。今から思い返すと、中学校に通うとかいう次元じゃなく、本人と家族が普通に安全に生活していけないほどの最悪な精神状態だったんだけど、私はそれに気付いていなかった。中学校に通えなくなったら人生が終わると思っていて、そこが何よりも肝心だと思っていた。あの頃は人生が本当に辛くて、夜、薬を飲むときに、「これ全部飲めば死ぬことができるのかなあ」と毎日思っていたし、1週間に1回くらい実際にその言葉を口にしていた。でも、あの時にそんな自殺未遂のようなことをしたら一発で入院が決まっていたと思うから、本当にやらなくてよかったと思う。

普通に生活することさえままならない状況だったのに、私はその頃とにかく「なんとしても学校に通わなくちゃ」「勉強しなきゃ」「頑張って生きなきゃ」という強迫観念にとらわれていた。だからどんなに精神状態が悪くても本気で自殺しようとは思わなかったし、学校に通ったし、狂ったように勉強していた。

なにがこんなに私の精神状態を最悪にしてしまったのだろうか。そう考えるとそれは小学校高学年時代に遡ることとなる。

まずは小学4年生の時に勃発した学級崩壊が辛かった。

shinnotsuma.hatenablog.com

 

でもそれ以上に私の心を苦しめたのは中学受験だったと思う。兄が先に中学受験専用の大手塾に通っていたため、小学校での成績が兄とあまり変わらなかった私は当然のようにそこに入れられた。しかし、私は兄とは違い、そこでの勉強についていくことが出来なかった。

自慢ではないが、小学校のテストではほとんど100点しかとったことがなかったし、都の学力テストでも全教科90点以上は取れていた。小学校での勉強なんて楽勝だと思っていた。進みが遅すぎてイライラしたぐらいだ。小学校でも完全に頭が一番良いキャラとして過ごしていた。それなのに、塾の勉強は全然出来なかった。

全然出来なかった訳ではないと思う。しかし、常に100点しかとったことのない私にとって、どんなに頑張ってもテストで50点、60点しか取れないのはかなり屈辱的だった。また、兄との比較もあった。兄はその教室に通っている100人くらいの生徒の中で1番の成績をずっと納め続けていた。この塾は入塾の際にテストを行い、その成績順でクラスが決まるのだが、そのテストの段階で兄はもう1位の成績を確保し、当然のように1番レベルの高いクラスに配属された。この塾の全国の生徒全員が参加する模試で、20位以内に入って表彰されたこともあった。それに比べると、私の成績はなんともお粗末なものだった。まず、最初のクラス分けで上から2番目のクラスにしか入れなかった。そのクラスの中でも成績上位に入ることは出来ず、真ん中くらいの成績だった。それに、塾に入る前はあんまり頭の良さが変わらないと思っていたし、周りにも思われていた兄とかなりの差がついてしまったことに戸惑いを隠せなかったのだと思う。

授業では、先生の言っていることを理解することが出来ないことが多かった。小学校では授業で理解できない事柄なんて一つもなかったけど。社会とか理科の暗記系もあまり良い成績を納めることはできなかった。覚える量が膨大すぎた。全国の主要な川の名前と特徴を一回の授業で教わり、その数日後の土日にはテスト、そしてその習った内容をずっと覚えていなければ前に進めない、そんな感じだった。兄は記憶力も半端ではなく、なんの事なしにそれらをこなしていっていた。

とにかく自分が惨めで惨めで仕方なかった。こんなに自分を惨めに思ったのはこの先の人生でもなかった。なんでこんなに出来ないのだろう、分からないことだらけ、理解できないことだらけなんだろうと途方に暮れていた。塾に行くのも楽しくはなく、割と早い段階から辛くなっていたんだと思う。でも、その頃は「通うのことや勉強しなければいけないのが辛い」とか「もうやめたい」という感情を自分の中で感知することさえできなかった。(書いていて、感情の発達の問題でそもそも「辛い」という感情を認識出来るようになるのは中学生くらいなのではないかなと思ったりした)とにかく「やらなければ」「頑張らなければいけない」という強迫観念しかなかった。そうやって辛い中頑張り続けてしまったことが精神衛生上良くなかったのだろう、私の精神状態はどんどん最悪な状況へと向かっていった。

勉強のこと以外にも辛いことはあった。徹底的な詰め込み教育だったから、平日は授業間の休み時間が10分しかなかった。その時間におにぎりを食べてお手洗いを済ませなければならない。まだ小学生で食べるのも遅かったから、これでさえもかなり苦痛だった。おにぎりを残すのも親に申し訳ないし、お手洗いに行かないわけにもいかない。おにぎりの味を楽しむこともできず、とりあえず口いっぱいに詰めて、大好きな午後の紅茶のミルクティーで流し込んで足早にお手洗いに行った。おにぎりもミルクティーも大好きで本当は美味しいはずなのに、塾で大急ぎで食べるそれらはまずくて仕方がなかった。

結局、この塾は6年生の最初の方に辞めることとなった。ある日、塾に行くために家を出発したものの、塾の中に入ることを考えると気分が悪くなって、塾に足を踏み入れることが出来なくなってしまった。そのまま街をウロウロと徘徊していたのだけれど、特にやることもなければ、外がだんだん暗くなってきて怖くなってきてしまったため、塾のあるビルに戻った。でもどうしても塾のあるフロアに足を踏み入れることが出来なくて、ビルの階段をウロウロしていたところを、行方不明になった私を探していた塾のスタッフに捕獲された。スタッフに捕獲されて、教室ではなく、いつもスタッフがいるところに座らされたけど、もう塾という空間に存在することすら嫌だったので、座りながらずーっと泣いていた。「これからまた塾に通わなきゃいけなくなるのかなあ、それだけは絶対に嫌だなあ」とか思っていた。こんなことがあっても、母親はまだ塾に通わせることを完全に諦められてはいなかった。私はこの頃、自分の感情がどうなっているのか知ることがまだ困難だったし、それを伝えることはもっと出来なかったので、なんで脱走したのかという問いに対して、「勉強が十分に出来ていなくて、テストを受けるのが嫌だったから」と親に説明した。母親はそれを言葉通りに受け取ったようで、「テストは延期になったから通い続けるのは問題ない」と判断したみたいだった。ただ、脱走時の異常な精神状態を感知した塾のスタッフと、私の父親、当時通っていた精神科医とカウンセラーの必死の説得があり、母親は塾に通わせるのをなんとか諦め、この塾はなんとか辞めることが出来た。まあそれでも母親は私に中学受験を続けさせることだけは諦められず、週2で家庭教師をつけて、目標を相当下げて中学受験させることは諦めなかったけど。

 

この経験から思うことは、かなりの高ストレス環境下にいておかしくなってしまいそうだと感じる人は、とにかくどんな手段を使ってでもそこから「逃げて」欲しいということだ。どんなに健全な精神を持ち、社会的に見て「普通」に生きてこられた人でも、高ストレス下でずっと耐えて続けていると、大抵精神をおかしくしてしまう。しかも、1回おかしくなってしまった精神はそう簡単には戻ることはない。もしかしたらもう一生元には戻らないかもしれない。

今までいわゆる「ドロップアウト」したと見られる色々な人にお会いしたけど、ドロップアウトして「なんとかならなかった」人を私は見たことがない。それまでのような物質的に豊かな暮らしは出来なくなったとしても、みなさん前を向いて、小さなことに幸せを感じたりして生きていらっしゃる。もちろん辛いこともたくさんあるだろうけど、それは逃げたって逃げなくたって一緒のことだ。

「逃げるな」とか「逃げたらやり直しがきかなくなる」とか世間は言ってくるけど、そう言う人たちは果たして自分のことを本当に考えてくれているのだろうか。今一度よく考えてみて欲しい。自分のことは自分が一番よく分かるはずだ。どんなに同じ経験や感情を共有したとしても、他人の気持ちを完璧に理解することなんて出来ない。結局自分の気持ちは自分でしか分からないのだ。

私は一番ストレスが高い状況に置かれたのが小学生の頃だったから、自分の辛いという気持ちもよく分からないまま、逃げ出すことも出来ずに、同じ環境で2年間も頑張り続けてしまった。

その結果、閉鎖病棟入院寸前まで精神を病み、それ以降10年以上に渡ってずっと苦しみ続けている。この歳になると、もう人生の半分以上が病気と向き合う生活となった。

今は環境をかなり変えたことで、病状はかなり改善されたけど、今でもこれからの人生で私が健全な精神でいるということはもうほとんど叶わないんだろうなと感じる。ちょうど2、3日前まで1ヶ月以上、毎日辛くて死にたいという気持ちにに苛まれていた。

ただ、今思うことは、暗くて先が見えないトンネルには、ちゃんと終わりがあって、いつか絶対にそこにたどり着けるということだ。暗いトンネルにいる時は、もうこの状態がずっと続くんじゃないかという絶望しか感じなくなってしまうけど、いつか絶対に終わりが来て、光が見える。だから、大事なことは光を目指して歩き続けることなのではないかと思う。ずっと暗いトンネルの中にいてはいけない。そのままでは最悪、死に至ってしまうかもしれない。私たちは生まれた以上、どんなに暗くて絶望的な道の途中でも、生きるために光を目指さなければいけないのだと思う。

そのために、「逃げて」欲しい。暗い道では、先を見通すことが出来ない。そんな時は、自分の心の声に従って歩いて行って欲しい。自分の心の声は一番正しいと思う。自分を良い方向に導いて行ってくれると思う。それを信じて、歩き続けて行って欲しい。いつか必ず光にたどり着けると思うから。

 

母親について思うこと

この間、といっても2週間くらい前、母親とあることで徹底的に対立してしまった。その時はかなり責められて、しかも通院のため実家に1泊したため、その間ずーっと責められているような状態となり、かなり精神的にキてしまった。母親はストレスがあるとすぐに寝られなくなってしまうため、2人とも夜中の3時まで言い合ったり、絶望的な気持ちになったり、泣いたりしていて、間違いなく人生で1番辛い夜だったと思う。こんなことになるために私は生まれた訳でも、母親は私を産んだ訳でもないのになあと考えてしまって、どうしようもなく心が辛かった。

通院が終わって逃げるように家に帰ったのだが、極限状態の精神状態の中、その道中で電車の乗り換えが上手く行かなかったこともあり、ホームに入ってくる電車を見てこのまま身を投げてしまおうかと本気で思った。ホームに電車が入ってくる時、何も感じずにプラットホームにいられるのは幸せなことなんだなとか思った。

家に帰って、夫に色々話している中で、やはり私の母親は少しおかしいという話になって(そんなことは分かっているはずなのになぜか実家に帰ると母親に母親が正しいのだと思い込まされてしまう)、夫に「まなさんの母親はまなさんを使って自分の人生を肯定しようとしているだけなんだよ。まなさんのためとか言って私の幸せのことなんて考えていない気がする」と言われた。それを聞いて、実家から帰ってきて間も無く、母親からの洗脳が完全に溶けておらず、精神が極限状態だった私は夫に向かって、「そんなの分かってるよ!!でも、私を産んで20年間育ててくれた母親をそんなひどい人だったなんて思いたくないじゃん!!!」と泣き叫んでいた。

後から思い返すと、極限状態で出たこの発言こそが私の本当の正直な気持ちだったんだろうなと思う。母親が少し間違っていることなんてもうとっくに気付いていた。私を基本的には否定してくるし、やりたいことを言っても、「どうせ失敗するからやめなさい」と言って挑戦すらさせてくれない、自分の歩んで欲しい人生を押し付けて実家に縛りつけようとするなどなどの行為を長期に渡って私にしていた。実際に暴力を受けたことはなかったけど、言葉の暴力だったり、精神的に追い詰めるというようなことは常にされていた。母親はどう考えても私の幸せを妨害する存在だったことは明らかだ。

でも、それでも、私は母親のことを心底嫌いになって、否定したり軽蔑することはどうしても出来ない。だって母親だから。理由は「母親だから」ただそれだけだ。

世の中の毒親に悩む子ども達が、もし、母親のことを心の底から嫌いになって憎い存在だと思たら、この世には「毒親問題」なんてものは存在しなくなるのだと思う。親子の関係というのはそれほどまでに深刻なものなのだ。

だから、私は母親と少し距離を置くことにした。会うと2人ともどうしようもなく辛くなってしまう。母親は今もずっと気を揉んでいるのだろうけど、会わなければそのことを私が心に病むこともない。少し冷たいと思われるかもしれないけど、母親は私が母親が思う人生から外れるたびに気を揉んでしまうので、それはもう私にはどうしようもない。 私には母親の望む人生を生きることは到底出来ないし、出来たとしても私が幸せになれないからだ。

いくら産んで育ててくれたとはいえ、親と子の人生は別々のものだ。そのことを理解した上で、自分の人生を一番に考えられるようになったら、それが自立の第一歩なのではないかなと思う。もちろん親のために生きたっていいし、生きなくたっていい。産んで育ててくれたからといって、その恩でずっと親のために生きる必要はどこにもない。今までありがとうという気持ちで、新たな場所に巣立っていけば良いのだ。今はそう思える。私はこれからも自分の思うようにずっと幸せに生きていきたいなあと思っている。

しょぼい喫茶店と私の話

昔から学校にまともに通えた事がほとんどなかった。それでもなんとかストレートで大学にまで入学した私、しかし、大学に通えなくなってしまい、人生に絶望した私は何の巡り合わせか東京の片隅にある「しょぼい喫茶店」の扉を叩いていた…


あの頃、私は人生に絶望していた。高校を中退してしまい、でもなんとか普通のレールに乗ろうと通信制の高校に入学した。そこで高校卒業の資格を得ることが出来、なんとか大学に入学する事が出来た。入学式、ここを卒業しさえすれば、まともな社会のレールに乗れる。ここで何とか頑張って卒業して就職しようそんな決意を新たにしていた。


しかし、1ヶ月で通う事が出来なくなってしまった。ゴールデンウィーク明けの登校日、私は朝起きて普通に電車に乗った。乗り換えの駅に着いた。降りなければ。でも、なぜか身体が動かない。行きたくないという気持ちが心と頭を支配している。でも降りなければ。こんなところで私の人生を終わらせるわけにはいかないのだ。ここで頑張って社会のレールに乗らなければ。大学は私に残された最後の希望なのに… 行かなければいけないことは理性では完璧に理解していた。通わなければどうなってしまうのか分かっていてとても怖かった。何としても行かなければ。ずっと心の中で葛藤したけど、結局その日大学に辿り着くことは出来なかった。まあ1日だけだろう。明日になれば行けるはずだ。そう思っていた。しかし、私は結局その後の1週間、この日と全く同じ事を繰り返してしまった。

 
人生が終わったと思った。もう死のうかとも思った。でもまだ18歳、ここで人生を諦めらる決断は私にはどうしても出来なかった。とりあえず大学のカウンセリングセンターに通うことにした。そこでカウンセリングを受ける中で、ADHDではないかと言われた。どんなにカウンセリングに通っても状況は改善されなかったこともあり、とりあえずテストを受けることになった。


結果、ADHDとの診断を受けた。とりあえず治療を開始した。ADHDは生まれつきの脳の障害なので、治るということはないのだけれど、改善されることはあるということだったので、頑張って治療に励んだ。

 
それから1年、だいぶ症状が改善した私は、同じようなADHDの人達と交流してみたいという気持ちが起こるようになっていた。とりあえずADHDの人達が集まる女子会に行ってみた。そこで知り合った方のSNSでしょぼい喫茶店の存在を知った。

 
その頃には、私は大学を辞め、通信制の大学に通う決断をしていた。大学を卒業して資格を取得すれば働く事もできる。高校も通信制だったし、興味がある分野でもあったので、なんとか頑張ろうと思っていた。

 
しかし、ここもダメだった。私は昔からレポートを書くのが絶望的に出来ないのだ。「適当に書けば良いじゃん、なんとなくでいけるよ」とよく言われるのだが、私は絶望的に適当が出来ない。完璧主義で、0か100しか存在しないので、自分の中で100にならないとどうしても提出する事が出来ない。大学のレポートなんて100点満点の答えはないわけなので、上手く行くはずがない。

 
ここが本当の絶望だったのだと思う。もう私は普通に社会のレールに乗って生きるということが出来ないのだなという絶対的な諦めを感じた。もうダメだ。生きていけない。やっぱり死のうかな。しかし、やはりどうしても死ぬ決断が出来なかった。今になっては死ななくて良かったと思うけど、この時はこんなにダメなのに死ぬ決断すら出来ないなんて本当にただのクズだな、自分本当に死ねば良いのにという気持ちだった。

 
私はどこかに救いを求めることを辞められなかった。私が初めてしょぼい喫茶店を訪れたのは、そんな時だった。

 
初めて訪れたしょぼい喫茶店は、とても居心地が良かった。普段いる忙しない世界とは全く違う、ゆるやかで穏やかな空気に満ち溢れていた。そこで池田さん、おりんさん、たまたま来店していたお客様に人生相談のようなことをした。今から思えば、飲食店でそんな事をするのは甚だおかしい事なのだが、人生に切羽詰まりすぎていたのだと思う。でも、池田さん、おりんさんはちゃんと私の話を聞いてくださった。人生について赤裸々に話す事が出来る人が周りにいなかった私にとっては、それだけでもかなり救われた。


この日ですっかりしょぼい喫茶店のファンになってしまった私は、1週間後、またしょぼい喫茶店を訪れていた。驚いた事に、池田さんは私のことを覚えてくださっていて、更に驚いた事に私が話した内容まで覚えてくださっていた。私はもうそれだけで感動してしまっていた。


実はこの時、自分で生きていけないなら私は結婚して養って貰えば良いのではないかという考えを持っていて、周囲の人によく結婚したいと言っていた。もともと結婚はしたかったし、するなら若い方がまだ貰い手がいるのではないかと考えていた。私のような欠陥品を貰ってくれる人がいるとはあんまり考えられなかったけど…でも今から結婚相手を探す事は別に悪い事ではないと思った。頑張って生きている人からすれば、なんて安直でバカなんだと思われると思うけど、人生が八方塞がりで取り敢えず生きていくことだけを考えていた私は結構真剣だった。


そんな話をしている折、池田さんに今の夫を勧められた。「○○さん良いと思いますよ。ここの常連さんなんですけど、いつもニコニコしてて優しくてとても良い人なんですよ」と言われた。

 
それが去年の5月初旬、私はまだ夫と会ったことすらもなかった。


しかし、夫との出会いは案外早く訪れる事となった。最初に出会ったのは5月終わり、都内のバーでたまたま会う事が出来た。そして次の日もしょぼい喫茶店でたまたま鉢合わせした。といっても、2人ともしょぼい喫茶店の常連だったので、そこで出会うことは必然だったとも言える。

 
その後は色々な事があったけど、結局7月の終わりに結婚する運びとなった。5月の終わりに出会ってからわずか2ヶ月。結婚の報告はもちろん池田さんとおりんさんのお二人に一番最初にさせていただいた。


今でもお二人が居なかったら結婚する事は無かったのではないかなと考えることがある。結婚を決めたのは私達だけれど、最初のきっかけを作ってくださったのは間違いなく池田さんとおりんさんのお二人だ。

 
また、もし、しょぼい喫茶店に出会っていなかったらと今も思う。出会っていなかったら、私はまだ絶望で真っ暗な人生を歩んでいたのではないかと。

 
池田さん、おりんさんは私を救おうという気持ちは無かったのだろうと思う。どんなに頑張っても人が人を救う事は出来ない。ただ、あまりにも人生に行き詰まっている私に少しのきっかけをくださった。結果的にそのきっかけが私の人生を大きく変える事となったのだが。私はお二人としょぼい喫茶店という場所に勝手に救われたのだと思う。

 
池田さんがここに来て、人生で苦しいこと、辛いことを話して共有しても、一歩外に出ればまた辛い現実が待っているかもしれない。だから私達は辛い人を救ってあげる事は出来ないとおっしゃっていた。確かにその通りだと思う。どんなに辛い思いを共有したって、それで辛い現実が変わるわけではない。一歩外に出れば辛い現実が待っている。それでも、辛いことを共有して、それでもみんな頑張って生きているということを感じることで、私も後もう少しだけ頑張ってみようと思えるのだと思う。今ここからまた一歩踏み出そうと思えるのだと思う。人生がどうしようもなく辛くなってしまった時、しょぼい喫茶店に行き、そこで色々な方と話したり、ゆったりとした時間を過ごすことで、もうちょっと頑張ってみよう、生きてみようと思える。しょぼい喫茶店とはそういう場所なのだと思う。

 

これは私の人生の話で、しょぼい喫茶店に行けば皆さん救われますよという話ではない。ただ、本当にたまたま、私はしょぼい喫茶店と池田さん、おりんさんによって勝手に救われたという話だ。

 

人生は本当にままならなくて辛いことばかりだけれど、辛い時に行けば、また頑張ろうと思える場所がある、それだけですごく幸せなことなのだなと思う。

 

最後に今の私を作ってくださった、私の大好きな場所であるしょぼい喫茶店の店主、池田さんとおりんさんが書いた『しょぼい喫茶店の本』が4月10日に百万年書房さんより発売されます。

しょぼい喫茶店の本

しょぼい喫茶店の本

 

この本が、そしてしょぼい喫茶店が、また誰かの背中を少しだけ押すことになってくれればと願わずにはいられません。

 

少しでも気になった方は、ぜひ本をお手にとっていたただき、願わくばしょぼい喫茶店に実際に足を運んでいただければと思っています。

 

1人でも多くの人にこの本が届きますように。