安藤まなのてきとー日記

22歳 発達障害の母の日記です

母親の幸せと私の幸せ

一昨年くらい、私が好きな女性アイドルグループのメンバーの一人が、成人式を迎えた時に母親にこんな言葉を送りました、母親はこう返してくれました、とても感動的な会になりました、みたいなブログを書いていて、とても感動して、母親に話した。そしたら、「私はそんな事言われても何にも感じない。いくら感謝されても足りないから。あんたみたいな欠陥品育ててきたのは並大抵の苦労ではなかったし、私の親としての無償の愛があったから出来たけど、他の親だったら育児放棄してた可能性が高い。私が母親でここまで育ってこられて良かったね」というようなことを言われた。

まあ、同じような事は特に高校を中退してからそれまでも言われたことがあって、「ああ、私って本当に欠陥品なんだな、だから言われてもしょうがないな」と思っていたけれど、この時は、その子のブログを見て、私もそんなふうな成人式迎えられたら良いなあと思って母親に話したので、かなりショックがデカかった。私はハートフルな成人式を迎える事も出来ないのか…と落ち込んだ。

そんな事を言われた時に「私は自分で生まれたくて生まれてきたわけじゃない!!」って言うことも出来たんだろうけど、なんか母親がとてつもなく可愛そうだったのと、何より、その言葉を口にしてしまったら、人生全然何も上手くいかないけれど、頑張って普通を目指して生きてきた自分の努力が水の泡のように消えていって、今まで必死に守ってきた何かがガラガラと音を立てて崩れ去ってしまう気がしてとてもそんな事言えなかった。

母親からしたら、私達子どもは所詮自分が身につけるアクセサリーみたいなもので、本当はダイヤモンドのネックレスが欲しかったのに、それがガチャで当たるかもしれないと言われて鼻息を荒くして引いてみたら、ニセモノのガラクタだったみたいな感覚なんだろうなと思った。

そして母親は無理をさせてでもダイヤモンドのネックレスにどうにかして近づけようとしていた気がする。

私も最初はダイヤモンドのネックレスになろうと、途中からはもうせめてガラクタからは抜け出そうと必死に頑張ったけど、結局そんなこと出来るわけなくて、どんなに努力したところで絶対になれないものにずっとなろうとしていたんだろうなと思う。そうやって頑張ってきたから本当に人生全てが辛かった。

学校にもちゃんとは通えず、社会から孤立してしまっていて生きていて関わる人がほとんど家族しか居なかったから、主張の強い母親の価値観に完全に支配されていて、限界まで頑張って、他人に褒められて羨ましがられるような暮らしをしなきゃいけないのだと思っていた。今となっては、それをやって喜ぶのは、実際母親だけだったのだと思うけど。

最近、人間って辛いか幸せ、どちらかがベースにあるけど、辛いがベースの人にも楽しい瞬間、幸せだと思える瞬間はあるだろうし、幸せがベースでも、どうしようもなく辛くなってしまうこともあるだろうなと思うようになった。でも、1年前、実家の環境に耐えきれなくなって家出をする前の私の人生にはただ本当に楽しいだけの時間っていうのは存在しなかった。そんなわけないと思われるかもしれないけど、例えばほとんどの人が楽しいであろう遊園地に仲の良い友達と行ったとしても、楽しいという思いはありつつも、心の片隅に「頑張らなきゃいけないことがたくさんあるのにこんなことしていて本当に良いのだろうか」「本当は家で勉強していなければいけないんではないか」という気持ちが存在していて、100%楽しむことが出来なかった。家で好きなゲームをしていても、「こんなことやっていないで本当は将来のために勉強しなければいけないのに」と思っていた。あの頃は「自分の限界まで頑張る」ことが及第点だったのだと思う。だからそれ以外はなんの価値もなかった。たとえ95%頑張ることができたとしても、私にとってはなんの価値もなかった。

中学1年生の時、中学受験を最後まで全力でやり遂げることが出来なかった悔しさと、これから頑張って人生を建て直そうという強迫観念で、相当精神を病んでしまい、病的なほどに勉強していた。平日は学校から帰って4・5時間、休日は10時間くらい朝から晩まで食事とお風呂の時間以外は全て勉強していた。中学1年生でそんなに勉強する内容がないだろと思われそうだ。確かにない。だから私は全ての科目において問題集の同じ問題を30回くらいは解いていたと思う。途中からもう問題集の答えは全て覚えてしまっていた。もう本当に意味のない勉強だった。ただ、この時は精神が完全に破滅してしまっていて、縋るものが他になかったのではないかと思う。何かに取り憑かれたように勉強していた。

そこまで自分を追い込めたことがあるという経験がそれからの私の人生をもっと苦しめることとなった。中学1年生の頃はあんなに勉強出来ていたのに。あれぐらいやらなきゃダメなんだ。学生時代はずっとそう思って生きていた。

 

でも、この1年でインターネットで知ったコミュニティに顔を出してみたりして、色々な人に会って、色々な価値観を知って、別にそんなに必死に頑張らなくても生きていていいんじゃないかなと思うようになった。自分を限界まで追い詰めて頑張る必要なんてどこにもない。自分の考え方がそうさせているだけだ。楽な方に流れて行くことを悪いと思う人が世の中多いと感じるけど、楽な方に逃げて何が悪いのだろうか。どんな生き方でも、他人に迷惑をかけずに、ちゃんと生活していけたらなんでも良いのではないか。私は自分を限界まで追い詰めて頑張って、お金をたくさん稼いで、立派な家に住んで、ブランド物をたくさん身に着けて、周りに自分を尊敬してくれる人がたくさんいて…といういわゆる「幸せ」といわれる暮らしより、無理をしない範囲で頑張って、しょぼい家に住んで、しょぼいご飯を食べて、しょぼい服を着て、でもそうやって生きていけることに感謝して幸せを感じられる暮らしをしたい。愛する人が隣で一緒に同じような幸せを分かち合ってくれたら、もうそれ以上に望むものなんて何もない。それがずっと自分を追い詰めて「成功」とか「成長」とかを求めてずっと生きてきてた私がたどり着いた答えだ。

そう考えられるようになったら、ずっーと胸を支配していた生きづらさとか苦しみが消えていって、毎日が基本的に幸せだし、心から楽しいと思えることもいっぱい出来るようになった。もちろん辛いことが全てなくなるわけではないし、これからも辛いことはたくさんあるのだろうけど、日々の小さな出来事に感謝して、少しずつでも幸せを感じることができたら、もうそれで十分だと思う。だから、これからも小さな幸せや楽しみを積み重ねて生きていきたい。