安藤まなのてきとー日記

22歳 発達障害の母の日記です

私の精神が崩壊した時の話と、その経験から思うこと

中学校の頃は一番精神がやばかった。2週間に1回田舎の各駅停車しか止まらない寂しい駅から徒歩で20分くらい山登りして児童精神科に通っていた。中一〜中二にかけては、診療の最後に必ず精神科の先生に「入院してく?」と言われていた。その医者は本当に重篤な精神病患者しか診ていない先生だったから、診察で雰囲気がものすごく暗くなってしまわないようにわざと少しおちゃらけて話す先生だった。精神科医にはそうい人が多いらしい。だから私はその頃はただの冗談だと思っていたのだけど、医者と親からすれば八割型本気だったっぽい。入院とは、もちろん閉鎖病棟への入院のことだ。そこは児童精神科では結構有名な病院で、閉鎖病棟を所持していた。私は中学校に通いながら通院していたので、基本的に夜の19時とかに予約をとっていたのだが、診療を待っている間に、男の子の大きな叫び声が聞こえたり、閉鎖病棟精神科医が大慌てで走って向かったり、泣きじゃくっているパジャマ姿の女の子が医者と看護師に両脇で支えられながら病院内を歩いたりしているのを目にしたこともあった。その頃は閉鎖病棟がどんな恐ろしい場所なのかなんて想像することも出来なかったけれど。私は通っている中学校に通えなくなるのが嫌だったから断固として入院を拒否していた。今から思い返すと、中学校に通うとかいう次元じゃなく、本人と家族が普通に安全に生活していけないほどの最悪な精神状態だったんだけど、私はそれに気付いていなかった。中学校に通えなくなったら人生が終わると思っていて、そこが何よりも肝心だと思っていた。あの頃は人生が本当に辛くて、夜、薬を飲むときに、「これ全部飲めば死ぬことができるのかなあ」と毎日思っていたし、1週間に1回くらい実際にその言葉を口にしていた。でも、あの時にそんな自殺未遂のようなことをしたら一発で入院が決まっていたと思うから、本当にやらなくてよかったと思う。

普通に生活することさえままならない状況だったのに、私はその頃とにかく「なんとしても学校に通わなくちゃ」「勉強しなきゃ」「頑張って生きなきゃ」という強迫観念にとらわれていた。だからどんなに精神状態が悪くても本気で自殺しようとは思わなかったし、学校に通ったし、狂ったように勉強していた。

なにがこんなに私の精神状態を最悪にしてしまったのだろうか。そう考えるとそれは小学校高学年時代に遡ることとなる。

まずは小学4年生の時に勃発した学級崩壊が辛かった。

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でもそれ以上に私の心を苦しめたのは中学受験だったと思う。兄が先に中学受験専用の大手塾に通っていたため、小学校での成績が兄とあまり変わらなかった私は当然のようにそこに入れられた。しかし、私は兄とは違い、そこでの勉強についていくことが出来なかった。

自慢ではないが、小学校のテストではほとんど100点しかとったことがなかったし、都の学力テストでも全教科90点以上は取れていた。小学校での勉強なんて楽勝だと思っていた。進みが遅すぎてイライラしたぐらいだ。小学校でも完全に頭が一番良いキャラとして過ごしていた。それなのに、塾の勉強は全然出来なかった。

全然出来なかった訳ではないと思う。しかし、常に100点しかとったことのない私にとって、どんなに頑張ってもテストで50点、60点しか取れないのはかなり屈辱的だった。また、兄との比較もあった。兄はその教室に通っている100人くらいの生徒の中で1番の成績をずっと納め続けていた。この塾は入塾の際にテストを行い、その成績順でクラスが決まるのだが、そのテストの段階で兄はもう1位の成績を確保し、当然のように1番レベルの高いクラスに配属された。この塾の全国の生徒全員が参加する模試で、20位以内に入って表彰されたこともあった。それに比べると、私の成績はなんともお粗末なものだった。まず、最初のクラス分けで上から2番目のクラスにしか入れなかった。そのクラスの中でも成績上位に入ることは出来ず、真ん中くらいの成績だった。それに、塾に入る前はあんまり頭の良さが変わらないと思っていたし、周りにも思われていた兄とかなりの差がついてしまったことに戸惑いを隠せなかったのだと思う。

授業では、先生の言っていることを理解することが出来ないことが多かった。小学校では授業で理解できない事柄なんて一つもなかったけど。社会とか理科の暗記系もあまり良い成績を納めることはできなかった。覚える量が膨大すぎた。全国の主要な川の名前と特徴を一回の授業で教わり、その数日後の土日にはテスト、そしてその習った内容をずっと覚えていなければ前に進めない、そんな感じだった。兄は記憶力も半端ではなく、なんの事なしにそれらをこなしていっていた。

とにかく自分が惨めで惨めで仕方なかった。こんなに自分を惨めに思ったのはこの先の人生でもなかった。なんでこんなに出来ないのだろう、分からないことだらけ、理解できないことだらけなんだろうと途方に暮れていた。塾に行くのも楽しくはなく、割と早い段階から辛くなっていたんだと思う。でも、その頃は「通うのことや勉強しなければいけないのが辛い」とか「もうやめたい」という感情を自分の中で感知することさえできなかった。(書いていて、感情の発達の問題でそもそも「辛い」という感情を認識出来るようになるのは中学生くらいなのではないかなと思ったりした)とにかく「やらなければ」「頑張らなければいけない」という強迫観念しかなかった。そうやって辛い中頑張り続けてしまったことが精神衛生上良くなかったのだろう、私の精神状態はどんどん最悪な状況へと向かっていった。

勉強のこと以外にも辛いことはあった。徹底的な詰め込み教育だったから、平日は授業間の休み時間が10分しかなかった。その時間におにぎりを食べてお手洗いを済ませなければならない。まだ小学生で食べるのも遅かったから、これでさえもかなり苦痛だった。おにぎりを残すのも親に申し訳ないし、お手洗いに行かないわけにもいかない。おにぎりの味を楽しむこともできず、とりあえず口いっぱいに詰めて、大好きな午後の紅茶のミルクティーで流し込んで足早にお手洗いに行った。おにぎりもミルクティーも大好きで本当は美味しいはずなのに、塾で大急ぎで食べるそれらはまずくて仕方がなかった。

結局、この塾は6年生の最初の方に辞めることとなった。ある日、塾に行くために家を出発したものの、塾の中に入ることを考えると気分が悪くなって、塾に足を踏み入れることが出来なくなってしまった。そのまま街をウロウロと徘徊していたのだけれど、特にやることもなければ、外がだんだん暗くなってきて怖くなってきてしまったため、塾のあるビルに戻った。でもどうしても塾のあるフロアに足を踏み入れることが出来なくて、ビルの階段をウロウロしていたところを、行方不明になった私を探していた塾のスタッフに捕獲された。スタッフに捕獲されて、教室ではなく、いつもスタッフがいるところに座らされたけど、もう塾という空間に存在することすら嫌だったので、座りながらずーっと泣いていた。「これからまた塾に通わなきゃいけなくなるのかなあ、それだけは絶対に嫌だなあ」とか思っていた。こんなことがあっても、母親はまだ塾に通わせることを完全に諦められてはいなかった。私はこの頃、自分の感情がどうなっているのか知ることがまだ困難だったし、それを伝えることはもっと出来なかったので、なんで脱走したのかという問いに対して、「勉強が十分に出来ていなくて、テストを受けるのが嫌だったから」と親に説明した。母親はそれを言葉通りに受け取ったようで、「テストは延期になったから通い続けるのは問題ない」と判断したみたいだった。ただ、脱走時の異常な精神状態を感知した塾のスタッフと、私の父親、当時通っていた精神科医とカウンセラーの必死の説得があり、母親は塾に通わせるのをなんとか諦め、この塾はなんとか辞めることが出来た。まあそれでも母親は私に中学受験を続けさせることだけは諦められず、週2で家庭教師をつけて、目標を相当下げて中学受験させることは諦めなかったけど。

 

この経験から思うことは、かなりの高ストレス環境下にいておかしくなってしまいそうだと感じる人は、とにかくどんな手段を使ってでもそこから「逃げて」欲しいということだ。どんなに健全な精神を持ち、社会的に見て「普通」に生きてこられた人でも、高ストレス下でずっと耐えて続けていると、大抵精神をおかしくしてしまう。しかも、1回おかしくなってしまった精神はそう簡単には戻ることはない。もしかしたらもう一生元には戻らないかもしれない。

今までいわゆる「ドロップアウト」したと見られる色々な人にお会いしたけど、ドロップアウトして「なんとかならなかった」人を私は見たことがない。それまでのような物質的に豊かな暮らしは出来なくなったとしても、みなさん前を向いて、小さなことに幸せを感じたりして生きていらっしゃる。もちろん辛いこともたくさんあるだろうけど、それは逃げたって逃げなくたって一緒のことだ。

「逃げるな」とか「逃げたらやり直しがきかなくなる」とか世間は言ってくるけど、そう言う人たちは果たして自分のことを本当に考えてくれているのだろうか。今一度よく考えてみて欲しい。自分のことは自分が一番よく分かるはずだ。どんなに同じ経験や感情を共有したとしても、他人の気持ちを完璧に理解することなんて出来ない。結局自分の気持ちは自分でしか分からないのだ。

私は一番ストレスが高い状況に置かれたのが小学生の頃だったから、自分の辛いという気持ちもよく分からないまま、逃げ出すことも出来ずに、同じ環境で2年間も頑張り続けてしまった。

その結果、閉鎖病棟入院寸前まで精神を病み、それ以降10年以上に渡ってずっと苦しみ続けている。この歳になると、もう人生の半分以上が病気と向き合う生活となった。

今は環境をかなり変えたことで、病状はかなり改善されたけど、今でもこれからの人生で私が健全な精神でいるということはもうほとんど叶わないんだろうなと感じる。ちょうど2、3日前まで1ヶ月以上、毎日辛くて死にたいという気持ちにに苛まれていた。

ただ、今思うことは、暗くて先が見えないトンネルには、ちゃんと終わりがあって、いつか絶対にそこにたどり着けるということだ。暗いトンネルにいる時は、もうこの状態がずっと続くんじゃないかという絶望しか感じなくなってしまうけど、いつか絶対に終わりが来て、光が見える。だから、大事なことは光を目指して歩き続けることなのではないかと思う。ずっと暗いトンネルの中にいてはいけない。そのままでは最悪、死に至ってしまうかもしれない。私たちは生まれた以上、どんなに暗くて絶望的な道の途中でも、生きるために光を目指さなければいけないのだと思う。

そのために、「逃げて」欲しい。暗い道では、先を見通すことが出来ない。そんな時は、自分の心の声に従って歩いて行って欲しい。自分の心の声は一番正しいと思う。自分を良い方向に導いて行ってくれると思う。それを信じて、歩き続けて行って欲しい。いつか必ず光にたどり着けると思うから。