母親について思うこと

この間、といっても2週間くらい前、母親とあることで徹底的に対立してしまった。その時はかなり責められて、しかも通院のため実家に1泊したため、その間ずーっと責められているような状態となり、かなり精神的にキてしまった。母親はストレスがあるとすぐに寝られなくなってしまうため、2人とも夜中の3時まで言い合ったり、絶望的な気持ちになったり、泣いたりしていて、間違いなく人生で1番辛い夜だったと思う。こんなことになるために私は生まれた訳でも、母親は私を産んだ訳でもないのになあと考えてしまって、どうしようもなく心が辛かった。

通院が終わって逃げるように家に帰ったのだが、極限状態の精神状態の中、その道中で電車の乗り換えが上手く行かなかったこともあり、ホームに入ってくる電車を見てこのまま身を投げてしまおうかと本気で思った。ホームに電車が入ってくる時、何も感じずにプラットホームにいられるのは幸せなことなんだなとか思った。

家に帰って、夫に色々話している中で、やはり私の母親は少しおかしいという話になって(そんなことは分かっているはずなのになぜか実家に帰ると母親に母親が正しいのだと思い込まされてしまう)、夫に「まなさんの母親はまなさんを使って自分の人生を肯定しようとしているだけなんだよ。まなさんのためとか言って私の幸せのことなんて考えていない気がする」と言われた。それを聞いて、実家から帰ってきて間も無く、母親からの洗脳が完全に溶けておらず、精神が極限状態だった私は夫に向かって、「そんなの分かってるよ!!でも、私を産んで20年間育ててくれた母親をそんなひどい人だったなんて思いたくないじゃん!!!」と泣き叫んでいた。

後から思い返すと、極限状態で出たこの発言こそが私の本当の正直な気持ちだったんだろうなと思う。母親が少し間違っていることなんてもうとっくに気付いていた。私を基本的には否定してくるし、やりたいことを言っても、「どうせ失敗するからやめなさい」と言って挑戦すらさせてくれない、自分の歩んで欲しい人生を押し付けて実家に縛りつけようとするなどなどの行為を長期に渡って私にしていた。実際に暴力を受けたことはなかったけど、言葉の暴力だったり、精神的に追い詰めるというようなことは常にされていた。母親はどう考えても私の幸せを妨害する存在だったことは明らかだ。

でも、それでも、私は母親のことを心底嫌いになって、否定したり軽蔑することはどうしても出来ない。だって母親だから。理由は「母親だから」ただそれだけだ。

世の中の毒親に悩む子ども達が、もし、母親のことを心の底から嫌いになって憎い存在だと思たら、この世には「毒親問題」なんてものは存在しなくなるのだと思う。親子の関係というのはそれほどまでに深刻なものなのだ。

だから、私は母親と少し距離を置くことにした。会うと2人ともどうしようもなく辛くなってしまう。母親は今もずっと気を揉んでいるのだろうけど、会わなければそのことを私が心に病むこともない。少し冷たいと思われるかもしれないけど、母親は私が母親が思う人生から外れるたびに気を揉んでしまうので、それはもう私にはどうしようもない。 私には母親の望む人生を生きることは到底出来ないし、出来たとしても私が幸せになれないからだ。

いくら産んで育ててくれたとはいえ、親と子の人生は別々のものだ。そのことを理解した上で、自分の人生を一番に考えられるようになったら、それが自立の第一歩なのではないかなと思う。もちろん親のために生きたっていいし、生きなくたっていい。産んで育ててくれたからといって、その恩でずっと親のために生きる必要はどこにもない。今までありがとうという気持ちで、新たな場所に巣立っていけば良いのだ。今はそう思える。私はこれからも自分の思うようにずっと幸せに生きていきたいなあと思っている。

しょぼい喫茶店と私の話

昔から学校にまともに通えた事がほとんどなかった。それでもなんとかストレートで大学にまで入学した私、しかし、大学に通えなくなってしまい、人生に絶望した私は何の巡り合わせか東京の片隅にある「しょぼい喫茶店」の扉を叩いていた…


あの頃、私は人生に絶望していた。高校を中退してしまい、でもなんとか普通のレールに乗ろうと通信制の高校に入学した。そこで高校卒業の資格を得ることが出来、なんとか大学に入学する事が出来た。入学式、ここを卒業しさえすれば、まともな社会のレールに乗れる。ここで何とか頑張って卒業して就職しようそんな決意を新たにしていた。


しかし、1ヶ月で通う事が出来なくなってしまった。ゴールデンウィーク明けの登校日、私は朝起きて普通に電車に乗った。乗り換えの駅に着いた。降りなければ。でも、なぜか身体が動かない。行きたくないという気持ちが心と頭を支配している。でも降りなければ。こんなところで私の人生を終わらせるわけにはいかないのだ。ここで頑張って社会のレールに乗らなければ。大学は私に残された最後の希望なのに… 行かなければいけないことは理性では完璧に理解していた。通わなければどうなってしまうのか分かっていてとても怖かった。何としても行かなければ。ずっと心の中で葛藤したけど、結局その日大学に辿り着くことは出来なかった。まあ1日だけだろう。明日になれば行けるはずだ。そう思っていた。しかし、私は結局その後の1週間、この日と全く同じ事を繰り返してしまった。

 
人生が終わったと思った。もう死のうかとも思った。でもまだ18歳、ここで人生を諦めらる決断は私にはどうしても出来なかった。とりあえず大学のカウンセリングセンターに通うことにした。そこでカウンセリングを受ける中で、ADHDではないかと言われた。どんなにカウンセリングに通っても状況は改善されなかったこともあり、とりあえずテストを受けることになった。


結果、ADHDとの診断を受けた。とりあえず治療を開始した。ADHDは生まれつきの脳の障害なので、治るということはないのだけれど、改善されることはあるということだったので、頑張って治療に励んだ。

 
それから1年、だいぶ症状が改善した私は、同じようなADHDの人達と交流してみたいという気持ちが起こるようになっていた。とりあえずADHDの人達が集まる女子会に行ってみた。そこで知り合った方のSNSでしょぼい喫茶店の存在を知った。

 
その頃には、私は大学を辞め、通信制の大学に通う決断をしていた。大学を卒業して資格を取得すれば働く事もできる。高校も通信制だったし、興味がある分野でもあったので、なんとか頑張ろうと思っていた。

 
しかし、ここもダメだった。私は昔からレポートを書くのが絶望的に出来ないのだ。「適当に書けば良いじゃん、なんとなくでいけるよ」とよく言われるのだが、私は絶望的に適当が出来ない。完璧主義で、0か100しか存在しないので、自分の中で100にならないとどうしても提出する事が出来ない。大学のレポートなんて100点満点の答えはないわけなので、上手く行くはずがない。

 
ここが本当の絶望だったのだと思う。もう私は普通に社会のレールに乗って生きるということが出来ないのだなという絶対的な諦めを感じた。もうダメだ。生きていけない。やっぱり死のうかな。しかし、やはりどうしても死ぬ決断が出来なかった。今になっては死ななくて良かったと思うけど、この時はこんなにダメなのに死ぬ決断すら出来ないなんて本当にただのクズだな、自分本当に死ねば良いのにという気持ちだった。

 
私はどこかに救いを求めることを辞められなかった。私が初めてしょぼい喫茶店を訪れたのは、そんな時だった。

 
初めて訪れたしょぼい喫茶店は、とても居心地が良かった。普段いる忙しない世界とは全く違う、ゆるやかで穏やかな空気に満ち溢れていた。そこで池田さん、おりんさん、たまたま来店していたお客様に人生相談のようなことをした。今から思えば、飲食店でそんな事をするのは甚だおかしい事なのだが、人生に切羽詰まりすぎていたのだと思う。でも、池田さん、おりんさんはちゃんと私の話を聞いてくださった。人生について赤裸々に話す事が出来る人が周りにいなかった私にとっては、それだけでもかなり救われた。


この日ですっかりしょぼい喫茶店のファンになってしまった私は、1週間後、またしょぼい喫茶店を訪れていた。驚いた事に、池田さんは私のことを覚えてくださっていて、更に驚いた事に私が話した内容まで覚えてくださっていた。私はもうそれだけで感動してしまっていた。


実はこの時、自分で生きていけないなら私は結婚して養って貰えば良いのではないかという考えを持っていて、周囲の人によく結婚したいと言っていた。もともと結婚はしたかったし、するなら若い方がまだ貰い手がいるのではないかと考えていた。私のような欠陥品を貰ってくれる人がいるとはあんまり考えられなかったけど…でも今から結婚相手を探す事は別に悪い事ではないと思った。頑張って生きている人からすれば、なんて安直でバカなんだと思われると思うけど、人生が八方塞がりで取り敢えず生きていくことだけを考えていた私は結構真剣だった。


そんな話をしている折、池田さんに今の夫を勧められた。「○○さん良いと思いますよ。ここの常連さんなんですけど、いつもニコニコしてて優しくてとても良い人なんですよ」と言われた。

 
それが去年の5月初旬、私はまだ夫と会ったことすらもなかった。


しかし、夫との出会いは案外早く訪れる事となった。最初に出会ったのは5月終わり、都内のバーでたまたま会う事が出来た。そして次の日もしょぼい喫茶店でたまたま鉢合わせした。といっても、2人ともしょぼい喫茶店の常連だったので、そこで出会うことは必然だったとも言える。

 
その後は色々な事があったけど、結局7月の終わりに結婚する運びとなった。5月の終わりに出会ってからわずか2ヶ月。結婚の報告はもちろん池田さんとおりんさんのお二人に一番最初にさせていただいた。


今でもお二人が居なかったら結婚する事は無かったのではないかなと考えることがある。結婚を決めたのは私達だけれど、最初のきっかけを作ってくださったのは間違いなく池田さんとおりんさんのお二人だ。

 
また、もし、しょぼい喫茶店に出会っていなかったらと今も思う。出会っていなかったら、私はまだ絶望で真っ暗な人生を歩んでいたのではないかと。

 
池田さん、おりんさんは私を救おうという気持ちは無かったのだろうと思う。どんなに頑張っても人が人を救う事は出来ない。ただ、あまりにも人生に行き詰まっている私に少しのきっかけをくださった。結果的にそのきっかけが私の人生を大きく変える事となったのだが。私はお二人としょぼい喫茶店という場所に勝手に救われたのだと思う。

 
池田さんがここに来て、人生で苦しいこと、辛いことを話して共有しても、一歩外に出ればまた辛い現実が待っているかもしれない。だから私達は辛い人を救ってあげる事は出来ないとおっしゃっていた。確かにその通りだと思う。どんなに辛い思いを共有したって、それで辛い現実が変わるわけではない。一歩外に出れば辛い現実が待っている。それでも、辛いことを共有して、それでもみんな頑張って生きているということを感じることで、私も後もう少しだけ頑張ってみようと思えるのだと思う。今ここからまた一歩踏み出そうと思えるのだと思う。人生がどうしようもなく辛くなってしまった時、しょぼい喫茶店に行き、そこで色々な方と話したり、ゆったりとした時間を過ごすことで、もうちょっと頑張ってみよう、生きてみようと思える。しょぼい喫茶店とはそういう場所なのだと思う。

 

これは私の人生の話で、しょぼい喫茶店に行けば皆さん救われますよという話ではない。ただ、本当にたまたま、私はしょぼい喫茶店と池田さん、おりんさんによって勝手に救われたという話だ。

 

人生は本当にままならなくて辛いことばかりだけれど、辛い時に行けば、また頑張ろうと思える場所がある、それだけですごく幸せなことなのだなと思う。

 

最後に今の私を作ってくださった、私の大好きな場所であるしょぼい喫茶店の店主、池田さんとおりんさんが書いた『しょぼい喫茶店の本』が4月10日に百万年書房さんより発売されます。

しょぼい喫茶店の本

しょぼい喫茶店の本

 

この本が、そしてしょぼい喫茶店が、また誰かの背中を少しだけ押すことになってくれればと願わずにはいられません。

 

少しでも気になった方は、ぜひ本をお手にとっていたただき、願わくばしょぼい喫茶店に実際に足を運んでいただければと思っています。

 

1人でも多くの人にこの本が届きますように。  

 

犬に足を舐められた日

今日はなぜか朝7時に起きた。2度寝しようと思ったけど寝られなかったので布団でゴロゴロしていた。11時近くになってかなりお腹が空いてきたのでカルボナーラを作って食べた。その後、洗面台の掃除をした。ここ何日か体調が最悪で寝たきりだったので、やることはたくさんあったのだが、ちょっと疲れたので一旦布団に戻った。2度寝できそうだなあと思っていたら夫が起きて来たので夫にもカルボナーラを作って食べさせて仕事に行くのを見送った。明日がダンボールの収集日だったので2人で大量のダンボールを車に積んで、仕事に行く前に夫にゴミ出ししてもらった。ADHDはなかなか資源物や不燃ゴミなどのゴミが捨てられなかったりして大変だ笑。その後は夜ご飯のカレー作りとトイレ掃除と部屋の掃除をした。今日は天気が良くて暖かかったので出かけようと思っていたのだが、やるべきことをすべて終えたら15時を過ぎていた。天候が良かったのでお散歩がてら歩いてショッピングモールまで行った。ショッピングモールの周りに小さな公園とワンちゃんの小さな公園みたいなものがあって、時間帯もちょうど良かったのか今日は色々な人がそこに集まっていた。なんとも平和で暖かな光景だった。ショッピングモールで買いたいものがあったのだが、体調を崩しているうちに売り切れてしまったようでちょっとショックだった。しょうがないので用はないけどなんとなくいつも行く本屋に寄った。そこの本屋の隣にブックカフェみたいなものがあって、そこは私営図書館のような取り組みを行っておて、そこに置いてある本(数はかなり少ない)は貸し出しができるようになっている。というのを今日改めて知った笑。(今までなんとなくは知っていたのだが、ちゃんと仕組みを理解したのは今日だった)そこは通常学生などが多くて気軽に入れる雰囲気だはないのだが、今日は時間帯が少し早めだったので、中をじっくり見ることができた。本棚を見てみると、割と最近人気になった本や、有名なミステリー作家の本などが揃っていて、結構私の好みの感じだった。借りてみたいなあと思ったのだが、カードを作らなければならないらしく、その対応をするコンシェルジュが月・水・金しか常駐していないとのことだった。少し残念だが、明日も晴れるみたいなので行ってみようかな。

久しぶりに動いたのでここまでで結構疲れてしまって、ソファで休んでいたのだが、帰った方がリラックスできるなと思って家まで帰った。帰る途中に、犬を散歩していたおじいさんとすれ違ったのだが、その犬がとてもすばしっこくて、おじいさんが気付かない間に私の方にシュシュシュッと寄って来て足を舐めてきた笑。おじいさんが気付く頃にはもう私の足を舐めていて、めちゃくちゃ俊敏な犬だなあと感心してしまった笑。それと、明日は不燃ゴミの収集日らしいことが分かって、こちらも家に溜まっていたので出そうと思い、家に帰ってゴミを持ってまたゴミ出しに行った。

家に帰ってとりあえずご飯を炊いて、お風呂の掃除をした。お風呂は毎日必要なところは洗っているけど、壁とかはあまり掃除しないので、今日は全体的に頑張って掃除した。夫が夜ご飯を食べて帰ってくるとのことだったので1人で夜ご飯を食べた。

なんでもない1日だったけど、やらなければいけないなと思っていたことがほとんど完璧に出来たし、色々な収穫もあって良い日だったなあ。

結婚当初のこと

初めて新居に足を踏み入れたのは8月の暑い盛りの朝だった。人生最大の修羅場を乗り越えたその足で、その前の日は名古屋へ行っていた。

今から思い返すと、結婚した当時夫は今の会社に入っておらず、収入も安定してはいなかった。ただ、当時の私からすれば、とりあえず雨風が凌げる場所と、とりあえずの食べる物と、後は夫がいればなんでも良かった。なぜかこのまま一緒に過ごしていけると信じて疑わなかった。白くて綺麗なワンルームの住居には家電は何も置いていなかった。冷蔵庫も洗濯機も何もかも。初めて買った家電は炊飯器だ。結婚祝いにもらったお米があったので、これを炊いて食べようと言って買った。しかし白いご飯だけでは食べられないのでわかめご飯にしようと、夫がわかめを買ってきて、塩抜きもせずにそのまま炊飯器に白米とわかめを入れて炊いたわかめご飯もどきは、とても食べられたものではなかった。

まよいがもオープン前でオープンの準備で毎日お店に通った。昼に起きて、真夏の日差しの中、洗濯物を担いでコインランドリーまで自転車を走らせる。濡れた重い洗濯物をまた担いで持って帰って、ベランダに干した。その後は掃除をしたりご飯を食べたりしてお店に行く。帰ってくる頃にはもう夜中になっていた。夜中はもうどこのお店も閉まっていて、それでも喉が乾くので、家の前の自販機で2人で100円のジュースを買って飲んだ。自炊することも出来なかったので毎日のように食べていた牛丼やお弁当は2週間ほどで飽きてしまった。

先の見通しも立たないそんな生活だったけど、不思議といつも心は満たされていた。辛いと感じることは全くなかった。ただ今を生きるのに精一杯だった。

あれから半年、引越しをして家電も揃い、今は夫の固定収入で暮らしていけている。まよいがも店長が就任し、連日イベントが行われ、平日でも満員のお客様がいる。少しずつではあるがコミュニティも形成されつつある。半年で色々なことが変わったけれど、全て良い方向に行っている気がする。やっぱりあの時の私の決断は間違いじゃなかった。今なら自信を持ってそう言い切れる。

人生の振り返り4 〜中学校が今でも嫌いだ〜

中学の時のことは辛いのであまり思い出したくないのだが、話が繋がらなくなるので書こうと思う。

中学に入学した時は一番精神状態がヤバかったと思う。人間関係など色々なストレスでまた強迫行動が始まってしまった。今度の強迫行動は、「建設中のスカイツリーを見続ける」というものだった。実家の階段の踊り場からスカイツリーが見えたのだが、私が中学に入学する頃、ちょうど建設の真っ最中だった。あの時のスカイツリーは本当に凄くて、毎日少しずつスカイツリーが出来ていっていた。つまり、1日1日で形がどんどん変わっていくということだ。この状態が強迫観念に拍車をかけたみたいで、「このスカイツリーの状態は今日じゃなきゃ見られないんだぞ」と脳が話しかけて来て、見るのをどうしても辞められなかった。それに私は昔から夕方に精神が不安定になる特徴があって、特に夕方に症状がひどく現れた。朝と昼は明るく、夜は暗いだけなので、1日1回外に出てスカイツリーを見れば気が済むのだが、夕方は刻一刻と日が沈んでいって、その度に光の反射などで情景が変わる。それがとても気がかりで、日が陰り始めてから完全に日が沈むまで踊り場を離れる事が出来ず、ずっと泣きながらスカイツリーを見ていた。正直、何を言ってるから分からない方も多いと思う笑。でも、この時の私の状態はそんな感じだった。

 そんな精神状態だったので、学校でも少し言動がおかしな部分があったのだと思う。それと、大人しいのに1番最初の中間試験で学年1位を取ってしまったことから、私への嫌がらせが始まった。最初は、私が仲良くしたいと思っていた女の子を自分達のグループに引き込み、徹底的にその子と離すという嫌がらせだった。それで私が少し落ち込んだのが嬉しかったのか、嫌がらせはエスカレートしていった。私が授業中に発言すると、ヒソヒソ笑われたり、聞こえる声で悪口を言われたりした。後はお手洗いに立った時に私の席とその周りの席を占領し、私が帰った時に座る席をなくして私の反応を楽しんだりとか。覚えている限りはそんなものだ。

そんな中でも少しの希望はあった。私と仲良くしてくれる子もいたのだ。私が1番覚えているのは、私が「ひーちゃん」と呼んでいた女の子だった。彼女は明るく面白くて、私に嫌がらせしてくる1軍女子とも仲良く出来るのだが、どこか陰がある不思議な子だった。その子とは、帰りの電車が同じ線だった事で仲良くなり始めたのだと思う。最初は彼女の話を一方的に聞いているだけだったのだが、この子は話しても大丈夫そうだなと思ったので、私からも話すようになった。もう1つ仲良くなったきっかけがあって、それは彼女が立ち上げた同好会だった。彼女は1年生の最初の方に、賛同してくれる1軍女子と、高校生の先輩と園芸同好会を立ち上げていた。ひーちゃんのクラスの担任がちょっと変わっていたのだが、その先生が園芸が好きだったので、その活動を手伝うという意味があったのだと思う。立ち上げる時は面白がって賛同してくれた1軍女子も先輩も、活動が地味だったからか、だんだん参加してくれなくなり、ほとんどひーちゃん1人で細々と活動していた。そこに、少し仲良くなった私が招待されたのだ。私は精神状態が不安定で、とても部活動なんか出来る状態ではなく、何も部活をやっていなかったのでちょうど良かったのだろう。勉強以外特にやることもなかった私は参加する事にした。活動といっても、敷地内にあるお花に水やりをしたり、時々寄せ植えをして構内に飾るというようなものだった。しかし、この同好会でまだ少し活動してくれてい子はみんな良い子で、とても居心地が良かった。

もう1人覚えているのは、かすと呼んでいた女の子だった。彼女はなぜか入学当初から私の事を気に入っており、朝会うと、「まな〜〜」とか言って抱きついてきたりした。ちょっと変わった女の子だった。昔から一部の人に熱狂的に好かれるタチらしい笑笑。周りの女子はレズだとか言って嫌がっていたのだけど、私は別に嫌ではなかった。(私もその子もレズではない、断じて) その子は私の事を気に入っていたので、嫌がらせが始まっても関係なく私に話しかけてくれて、仲良くしてくれた。嫌がらせに落ち込んでいるといつも励ましてくれた。同好会の立ち上げメンバーでもあったのだが、活動に参加してくれていて、帰りが同じ線だったのでよく一緒に帰った。

その2人と私を中心に比較的成績の良い子達数人で同好会の活動をしていた。夏休みには大した活動もしないのに水やりのためだけに学校に集まって、水遊びをしたり笑、家にいたら勉強しないからとみんなで学校に集まって勉強したりしていた。勉強しに集まると言っても、みんなすぐに勉強に飽きてしまって、黒板に落書きして遊んでいたりした。そんな時にたまたま前を通りかかった体育教師に「勉強するっていうから教室貸してやってんだぞ、勉強しないなら帰れ!」と怒られてシュンとしたりした。A組とB組しかなかったのに、ひーちゃんとは3年間クラスが別だったので、休み時間にピロティーに出て、土ふるいをしながら将来の不安とか学校の不満とかを語り合ったりもした。ピロティーは先生方も通るので、数学教師に「お前ら、またやってんのか」と呆れられたりもした。別に土ふるいをしたくてやっているのではなかった。土ふるいという口実を作って、A組B組関係なく仲良い子達と集まって話すのが楽しいからやっていた。

しかし、この頃の私は生きるのがとても辛かった。まず学校に通うのが辛いのに、放課後や休みの日に勉強しなくてはという強迫観念に常に晒されている。その上、やれ部活をやれ、やれ趣味を見つけろ、やれ運動をしろと言われる。私にはそんな体力はない。学校に通っているだけで精一杯で、それさえもままならないのだ。そして実家に帰ると「家事を手伝え」という母親のヒステリーが待っている。それに加えて将来への言いようのない不安というのが常に心を支配していた。「こんなんじゃ将来生きていけるはずがない。どうしよう。」という不安でいっぱいで、部屋で一人で泣いたりしていた。将来が不安なら現在を変えていくしかないのだが、私には現在を変える体力なんてなかった。とにかく毎日学校に通う。それだけで体も心も限界だった。アルバイトが出来ないのでお金を使ってストレスを発散することも出来ない。とにかく学校に通って家に帰って1日1日をやり過ごすしかなかった。不安や強迫観念を心に抱え続けたまま、学校に行き、嫌がらせを受けながらも、仲の良い友人数人と将来への不安を話したり笑ったりふざけたりしながら不安を昇華させる。そんな日々だった。寝る前に薬を飲むのだが、ほぼ毎日「生きるの辛いなあ…この薬全部飲んだら死ねるのかな…」とか思っていた。しかし生きるのを諦めるにはあまりにも早すぎた。

中学生というのは逃げ場がない。自分自身も思春期のドロドロしたものを抱えながら、同じくドロドロしたものを抱えた同い年の子ども達と、みんなのドロドロした感情が渦巻いている学校に通い続けなければならない。そこから嫌がらせ、イジメなども発生する。しかし、アルバイトをすることも出来ないし、お金を稼ぐことも派手に使うことも出来ない。とにかくその日々をやり過ごすしかない。その道から逸れることは許されない。

こんなこと考えてる人間がどれほどいるのか分からないけど、私は中学校というもの自体が嫌いだ。私の中学校以外でも、どの中学校に行っても同じようなものだったのではないかと思っている。とにかくみんな精神が未熟すぎるのだ。みんな他人との違いを許容することが絶望的に出来ない。みんな同じでなければ不安で不安で仕方ないのだ。その不安から少しでもみんなと違っている子を攻撃する。攻撃することで仲間との連帯感を得る。そんな場所だった気がする。

高校生になると、少しは他人との違いを許容することが出来るようになるし、部活がやりたくないならアルバイトするとか、稼いだお金でストレス発散するとか、学校に通うのが辛かったら通信制高校に行くとか、色々な選択肢が出来るようになるのだが、中学生というのはなぜこうも自由がないのだろうか… 本当に今思い返しても嫌になる。ただ、そこを生き抜けば少しは自由を得られるし、楽しいこともあるかもしれない。とにかく生きるしかない。生き抜くことでしか希望は生まれない。

過去の自分へ

昨日、夫に「まなさんがへこたれてる所なんて見た事がないし、まなさんならどんなことでも乗り越えていけると思う」と言われた。

結婚して分かったことなのだが、私は辛い事、嫌な事がたくさんあってもへこたれることなく、前を向いて歩く事が出来るみたいだ。そして結構根性もある。自分では気付かなかったけれど、夫が見つけてくれた。そうでなかったら、絶望しかないような人生を生き抜いて来られなかったのだろう。自分はネガティブだと思っていたので意外だった。今はすごく幸せなので生きていて良かったなと思う。今、過去の自分に伝えたい事は、「それでも生きていて偉いね」だ。どんな事があっても生きる事を諦めず、前を向こうとする事、それだけでものすごく偉いと今は思う。生きる事を諦めず、幸せになる為に行動を起こせば、そのうち小さな幸せにたどり着けるかもしれない。

夫は私の良いところをたくさん発見してくれる。あとは行動力がある所、大事な事を即座に決断出来る所、優しい所などがあるらしい。性格も好きと言ってもらえるのはかなり嬉しい。性格というのは育った環境が創っていくものだと思うので、今までの人生が肯定された気がするからだ。私が単純すぎるのかな笑。

昨日は暗黒の長文ブログを書いてしまったので、今日はこのくらいで。

最後に1言

「過去の自分、どんなに辛くても生きていてくれてありがとう」


人生の振り返りその3 〜暗黒の小学校高学年時代〜

小学4年生になり、担任の先生が変わった。青森県出身の22歳女性、要するに新任の先生だった。大学は東京だったようなのだが、最初のうちはとにかく津軽弁訛りが強かった。非常に子ども好きで明るく、溌剌とした先生だったのだが、新任だったため、勝手が分からず、生徒が何をしても怒るということがなかった。最初の1ヶ月は特に何もなく過ぎたが、2ヶ月くらい経った頃から地獄が始まった。何をしても怒らないことが分かった生徒(主に男子)達は授業中、先生の言うことを全く聞かず暴れ出し始めた。授業中、大声や奇声を発してみたり、先生をからかったり、教室内をウロウロしてみたり、遠くの席の友達のところへわざわざ行き、大声で話したり。とにかくひどい状況だった。授業などまともに出来たものではない。うるさくて先生が何を喋っているのかまったく分からなかった。そんな状況の中、私は過度のストレスから強迫性神経障害を発症した。

強迫性障害とは、ある特定の強迫行動がやめられなくなり、生活に支障を来すもの病気である。過度なストレスから発症する場合が多い。強迫行動には色々な種類があるのだが、私の場合は、「鏡を見るのがやめられない」だった。学校から帰って来るとずっと鏡を見ていた。洋服、被っているもの、髪型などを変えながら鏡を見続ける。自分でもやめたいのだが、やめることが出来ない。やめることが出来なくて嫌なので泣きながらずっと鏡を見続けていた。この時の気持ちを少し覚えているのだが、「この姿の私が見られるのは今この時しかない」という強迫観念が強すぎて、見るのをやめられなかった。やめようと思うたびに、脳が「この姿を見られるのは今この時しかないんだぞ」と話しかけて来るすごく嫌な感じだった。

この時、学校には通ってはいたのだが、学校に行くのが嫌だと言い出したらしく、母親が訳を尋ねると、「N君に殴られた。また殴られるのではないかと怖くて行きたくない。」と言ったらしい。それが不登校気味になる大きなきっかけになったみたいだ。私は殴られた事をもう覚えていないのだが、N君はキレると平気で他人を殴っており、担任教師にもそんな感じだったので、本当の事なのだろうなとは思う。

※N君のことはこちらに詳しく書いてあります

shinnotsuma.hatenablog.com

発症した理由は、学級崩壊もあるのだが、もう1つ、中学受験をするための塾に通い始めたのもあったと思われる。その塾は中学受験専門の大手塾だった。なぜそこに通うことになったかというと、私の住んでいた地域の学力レベルがとても低く、私の学区の中学は特に荒れていて、生徒が平日の昼に学校をサボって公園でタバコを吸っている生徒もいる中学校だったからだ。わたしの祖母が兄をそんなところには入れさせることが出来ないと考え、兄をその塾に入れたのだ。私は小学校では兄と同じくらい成績がよかったので、流れで私も入ることになった。その塾は、まず入塾テストの成績でクラス分けがされ、そのあとも全国模試の成績でクラスが変わる。それだけではなく、毎週行われるテストの成績順に席が決まるところだった。そのうえで、毎週テストの成績が総合成績と科目ごとの成績の両方、教室内に張り出された。そこで、兄よりも成績が良くないことに落ち込んだことや、勉強やテストのストレスがあったのだと思う。

あまりにも症状がひどいので、小さい時から通院していた小児科の医者に紹介してもらい、大学病院の児童精神科に通うことになった。そこでは毎回1時間くらい先生とカウンセリングをしていた。最初は服薬治療と鏡を見た回数をノートに書いて先生に見せるというやり方で治療をしていた。ノートに書くことで、回数が減ったら目に見えて分かるようになり、鏡を見る回数が減っていった気がする。昔のことなのであまり詳しくは覚えていない。あとは、最もうるさくて耐えられない授業3つを保健室で勉強するようになった。先生から課題を与えられて、それを解いて先生に提出していた。

4年生の授業で今でも覚えているのは、跳び箱をしていた体育の授業だった。5段、4段、3段と並んでいて、最初は3段でやっていた子も大体4段,5段に移動して練習していたところに、3段が空いたということで、いつも授業中に先生の言うことを聞かない問題児4,5人が3段の跳び箱で遊び始めた。問題児達は先生の言うことはどの授業でもほとんど聞かず、やりたい放題をやっていた。この授業では、3段を普通に飛ぶのではなく、その上で前転をしたり、アクロバット的なものをやっていた。もちろん先生は注意するのだが、何を言っても御構い無しでやっていた。何が印象に残っているのかというと、そのうちの1人、I君が、着地に失敗して右腕を骨折したのだ。いきなり「痛ってええ!」と言ってうずくまったのでみんな何かと思った。保健室に連行され、多分折れていると言われ、そのまま近くの病院の整形外科に運ばれ、1日戻って来なかった。体育の授業は半分くらいで中断になった気がする。まあ元々授業になっていないのでどうでも良いのだが。この話の更に面白いところが、この1ヶ月後くらいに地域の連合音楽会を控えていたことである。私の小学校は人数が少ないので4,5,6年合同で演奏することになっていた。その中で4年生は全員リコーダーを吹くことになっていたのだが、I君は右腕を骨折してしまったため、1人だけトライアングルを演奏することになったのである。ちなみにその合同音楽会は区のほとんどの小学校が参加し、ビデオにまとめられ、ばっちり写真も撮られている。これほど「ざまあみろ」と思ったことはない笑。更にこのI君は、同じ年にパソコン室に猛ダッシュしたもののドアの1歩手前ですっ転び、手首を大きく切る事件も起こしている。手首は大動脈が通っているので、保健の先生曰く、「もう少し深く切れてたら死んでた」らしい。1年で2度死にかけた男、最早伝説のI君である。

さて、そんな最悪の4年生を終えて、5年生になると早速担任の先生が変わった。その先生はベテラン教師で、学級崩壊した後のクラスを鎮める事で有名な先生だった。私の兄もその先生に担任をしてもらっていたので、心底安心した。しかし、ここで安心するのはまだ早かったのである。

担任教師が結構怖い先生だったので、授業をまともに聞かなかったり、騒いだりする子はいなかった。この頃には鏡を見るのは辞められていた。ただ、元々感覚過敏だった私には授業中の小さな音でも気になるようになってしまっていた。それと、中学受験の勉強が忙しくなってストレスが溜まっていたのか、ほとんど保健室登校していた気がする。朝、保健室に登校して、出られそうな授業だけ受けていた。そんな中、夏休み中にひょんなことから足を骨折してしまい、松葉杖生活になった私はもっと学校に行き辛くなった。

ちなみに不登校気味になったのは私だけではなかった。両親が中国人で、中国から日本に来て、私の通っていた小学校に3年生のときに転校して来た女の子が居たのだが、その子も学校に行くのをすごく嫌がっていた。彼女は日本語のイントネーションが少し違っていたことや、中国との文化の違いなどで、問題児達の格好の攻撃の的だった。普通に「ブス!」や「デブ!」などと言われていた。N君が一番攻撃していたのもこの子だった。その子は学校に行くのが嫌すぎて自宅を出る時に泣くらしいのだが、父親が有無を言わせず引きずって学校に連れて来ていた。一度、その子がそれでも抵抗して、学校の校門の前で大声で泣きながら動かないのを父親が何か言いながら(中国語なので分からない)引っ張って中に入れようとしているのを目撃した。その光景は今でも記憶に残っている。

後は人前で喋るのが苦手で、1年生の時に泣きながら1分間スピーチを15分くらいかけてしていたKちゃん。1,2の時は人前で喋るのは少し苦手だったものの、普通に友達と話したり笑ったりしていたのだが、3年生の後期くらいから喋らないし笑わない子になってしまった。その子もあんまり喋らないことから問題児達にたまにイジられていて、学校にいる事がすごいストレスだったみたいだ。ただ、自分の意思表示がうまく出来なかったので、先生達がその子の気持ちに寄り添ってあげることがあまり出来ずにいた。彼女は嫌な事があると黙って保健室に行ってしまうことがあった。私もほとんど保健室に居たのだが、その子を保健の先生が教室に連れて行こうとして、泣きながら抵抗していたところを見た事がある。

6年生も担任の先生は同じだった。もう騒ぐ男子は結構静かになっており、最後にやはり問題児N君の問題が浮き彫りになっていった。N君は、どんなに先生が厳しく叱っても全く言うことを聞かなかった。それどころか、逆ギレして、先生に反抗するようになっていた。N君は、嫌な事があると保健室に逃げる事もあった。4年生頃までは一緒に騒いでいた男子も、N君の異常性に気付き始め、周りには誰も居なくなり孤立してしまっていた。

6年生に上がった頃から担任教師の態度も少しずつ変わっていった。今までどんな悪い奴でも、言うことを聞かせる事が出来た担任教師が、N君が言うことを聞かないことでおかしくなり始めた。どういう風におかしいのかと言うと、何かと「連帯責任」と言う言葉を好んで使い、生徒を叱るようになった。N君がどんなに叱っても言うことを聞かない為、班などで(N君が原因で)問題が起こった時、班全員が悪いということになり、「連帯責任」を負わされて全員怒られた。

1例として、私の親友Mちゃんは、とてもしっかりしていて成績優秀、いつも先生から好まれる生徒で、5年生の頃は担任教師もMちゃんをとても気に入っていて、褒めちぎったり、色々な事を任せていた。それが、6年生の秋頃、体育の授業でN君と一緒のチームになり練習していたところ、N君が例のごとくふざけ始め、全く練習が出来なかった。そのことに怒った先生は、ふざけてチームメンバーの練習を邪魔していたN君ではなく、それを注意しなかったチームメンバーを怒ったらしい。この頃は、あまりにもN君がいう事をきかないので担任教師もストレスで少し狂っていたのだと思う。地獄だった。

それともう一つ大きな変化があった。保健の教師の事だ。5年生の頃までは、保健の先生がすごく良い先生で大好きだったので、まだ保健室登校出来ていたのだが、6年生になると、それまでとは打って変わったポンコツ教師になってしまった。保健室登校もし辛い。そんな中、受験のストレスに押しつぶされ、ついに塾にも通えなくなり、塾を辞め、家庭教師を付けてもらうようになった。この頃から母親の母校である中高一貫校を受けることが決定した。その中学校は出席日数に厳しく、小学校の6年生の前半の通知表を提出しなければならなかった為、死ぬ物狂いで小学校に通った。

なんとか前半を乗り切り、オールAで出席日数も少ない通知表を獲得した。しかし、そこで力尽きた私は完全なる不登校になった。この頃には4年生から通っていた児童精神科の先生にもあまりにも症状が酷すぎるということで匙を投げられた。その先生を紹介してくれた小児科の先生に相談に行き、カウンセリングを受けるようになった。そして、そのカウンセラーに紹介された新たな児童精神科に通う事になり、薬も変わり、毎日、何時に起きて何時に寝たかという事を記録するようになった。そんな最悪の状況の中、執念で中学受験をし、無事合格した。

書いていて、黒歴史すぎて辛くなってきた。更に救いの無いことを言うと、5、6年を担任してくれた教師はN君が原因で鬱病になり、定年前に退職する事となった。ちなみに彼女の旦那さんも鬱病で退職してしまった教師だった。色々な人の人生を狂わせたN君。彼と同じ中学校に行った友達に聞いたところ、彼は何か事件を起こして中学校を退学になり、少年院に入ったらしい。N君は気に入らない事があるとキレて平気で他人に暴力を振るう子だったので、他人にキレて暴力を振るったところ、相手が怪我をしてしまい、傷害事件になったということなのだろうと想像する。全く救いのない話である。