母親の幸せと私の幸せ

一昨年くらい、私が好きな女性アイドルグループのメンバーの一人が、成人式を迎えた時に母親にこんな言葉を送りました、母親はこう返してくれました、とても感動的な会になりました、みたいなブログを書いていて、とても感動して、母親に話した。そしたら、「私はそんな事言われても何にも感じない。いくら感謝されても足りないから。あんたみたいな欠陥品育ててきたのは並大抵の苦労ではなかったし、私の親としての無償の愛があったから出来たけど、他の親だったら育児放棄してた可能性が高い。私が母親でここまで育ってこられて良かったね」というようなことを言われた。

まあ、同じような事は特に高校を中退してからそれまでも言われたことがあって、「ああ、私って本当に欠陥品なんだな、だから言われてもしょうがないな」と思っていたけれど、この時は、その子のブログを見て、私もそんなふうな成人式迎えられたら良いなあと思って母親に話したので、かなりショックがデカかった。私はハートフルな成人式を迎える事も出来ないのか…と落ち込んだ。

そんな事を言われた時に「私は自分で生まれたくて生まれてきたわけじゃない!!」って言うことも出来たんだろうけど、なんか母親がとてつもなく可愛そうだったのと、何より、その言葉を口にしてしまったら、人生全然何も上手くいかないけれど、頑張って普通を目指して生きてきた自分の努力が水の泡のように消えていって、今まで必死に守ってきた何かがガラガラと音を立てて崩れ去ってしまう気がしてとてもそんな事言えなかった。

母親からしたら、私達子どもは所詮自分が身につけるアクセサリーみたいなもので、本当はダイヤモンドのネックレスが欲しかったのに、それがガチャで当たるかもしれないと言われて鼻息を荒くして引いてみたら、ニセモノのガラクタだったみたいな感覚なんだろうなと思った。

そして母親は無理をさせてでもダイヤモンドのネックレスにどうにかして近づけようとしていた気がする。

私も最初はダイヤモンドのネックレスになろうと、途中からはもうせめてガラクタからは抜け出そうと必死に頑張ったけど、結局そんなこと出来るわけなくて、どんなに努力したところで絶対になれないものにずっとなろうとしていたんだろうなと思う。そうやって頑張ってきたから本当に人生全てが辛かった。

学校にもちゃんとは通えず、社会から孤立してしまっていて生きていて関わる人がほとんど家族しか居なかったから、主張の強い母親の価値観に完全に支配されていて、限界まで頑張って、他人に褒められて羨ましがられるような暮らしをしなきゃいけないのだと思っていた。今となっては、それをやって喜ぶのは、実際母親だけだったのだと思うけど。

最近、人間って辛いか幸せ、どちらかがベースにあるけど、辛いがベースの人にも楽しい瞬間、幸せだと思える瞬間はあるだろうし、幸せがベースでも、どうしようもなく辛くなってしまうこともあるだろうなと思うようになった。でも、1年前、実家の環境に耐えきれなくなって家出をする前の私の人生にはただ本当に楽しいだけの時間っていうのは存在しなかった。そんなわけないと思われるかもしれないけど、例えばほとんどの人が楽しいであろう遊園地に仲の良い友達と行ったとしても、楽しいという思いはありつつも、心の片隅に「頑張らなきゃいけないことがたくさんあるのにこんなことしていて本当に良いのだろうか」「本当は家で勉強していなければいけないんではないか」という気持ちが存在していて、100%楽しむことが出来なかった。家で好きなゲームをしていても、「こんなことやっていないで本当は将来のために勉強しなければいけないのに」と思っていた。あの頃は「自分の限界まで頑張る」ことが及第点だったのだと思う。だからそれ以外はなんの価値もなかった。たとえ95%頑張ることができたとしても、私にとってはなんの価値もなかった。

中学1年生の時、中学受験を最後まで全力でやり遂げることが出来なかった悔しさと、これから頑張って人生を建て直そうという強迫観念で、相当精神を病んでしまい、病的なほどに勉強していた。平日は学校から帰って4・5時間、休日は10時間くらい朝から晩まで食事とお風呂の時間以外は全て勉強していた。中学1年生でそんなに勉強する内容がないだろと思われそうだ。確かにない。だから私は全ての科目において問題集の同じ問題を30回くらいは解いていたと思う。途中からもう問題集の答えは全て覚えてしまっていた。もう本当に意味のない勉強だった。ただ、この時は精神が完全に破滅してしまっていて、縋るものが他になかったのではないかと思う。何かに取り憑かれたように勉強していた。

そこまで自分を追い込めたことがあるという経験がそれからの私の人生をもっと苦しめることとなった。中学1年生の頃はあんなに勉強出来ていたのに。あれぐらいやらなきゃダメなんだ。学生時代はずっとそう思って生きていた。

 

でも、この1年でインターネットで知ったコミュニティに顔を出してみたりして、色々な人に会って、色々な価値観を知って、別にそんなに必死に頑張らなくても生きていていいんじゃないかなと思うようになった。自分を限界まで追い詰めて頑張る必要なんてどこにもない。自分の考え方がそうさせているだけだ。楽な方に流れて行くことを悪いと思う人が世の中多いと感じるけど、楽な方に逃げて何が悪いのだろうか。どんな生き方でも、他人に迷惑をかけずに、ちゃんと生活していけたらなんでも良いのではないか。私は自分を限界まで追い詰めて頑張って、お金をたくさん稼いで、立派な家に住んで、ブランド物をたくさん身に着けて、周りに自分を尊敬してくれる人がたくさんいて…といういわゆる「幸せ」といわれる暮らしより、無理をしない範囲で頑張って、しょぼい家に住んで、しょぼいご飯を食べて、しょぼい服を着て、でもそうやって生きていけることに感謝して幸せを感じられる暮らしをしたい。愛する人が隣で一緒に同じような幸せを分かち合ってくれたら、もうそれ以上に望むものなんて何もない。それがずっと自分を追い詰めて「成功」とか「成長」とかを求めてずっと生きてきてた私がたどり着いた答えだ。

そう考えられるようになったら、ずっーと胸を支配していた生きづらさとか苦しみが消えていって、毎日が基本的に幸せだし、心から楽しいと思えることもいっぱい出来るようになった。もちろん辛いことが全てなくなるわけではないし、これからも辛いことはたくさんあるのだろうけど、日々の小さな出来事に感謝して、少しずつでも幸せを感じることができたら、もうそれで十分だと思う。だから、これからも小さな幸せや楽しみを積み重ねて生きていきたい。

私の精神が崩壊した時の話と、その経験から思うこと

中学校の頃は一番精神がやばかった。2週間に1回田舎の各駅停車しか止まらない寂しい駅から徒歩で20分くらい山登りして児童精神科に通っていた。中一〜中二にかけては、診療の最後に必ず精神科の先生に「入院してく?」と言われていた。その医者は本当に重篤な精神病患者しか診ていない先生だったから、診察で雰囲気がものすごく暗くなってしまわないようにわざと少しおちゃらけて話す先生だった。精神科医にはそうい人が多いらしい。だから私はその頃はただの冗談だと思っていたのだけど、医者と親からすれば八割型本気だったっぽい。入院とは、もちろん閉鎖病棟への入院のことだ。そこは児童精神科では結構有名な病院で、閉鎖病棟を所持していた。私は中学校に通いながら通院していたので、基本的に夜の19時とかに予約をとっていたのだが、診療を待っている間に、男の子の大きな叫び声が聞こえたり、閉鎖病棟精神科医が大慌てで走って向かったり、泣きじゃくっているパジャマ姿の女の子が医者と看護師に両脇で支えられながら病院内を歩いたりしているのを目にしたこともあった。その頃は閉鎖病棟がどんな恐ろしい場所なのかなんて想像することも出来なかったけれど。私は通っている中学校に通えなくなるのが嫌だったから断固として入院を拒否していた。今から思い返すと、中学校に通うとかいう次元じゃなく、本人と家族が普通に安全に生活していけないほどの最悪な精神状態だったんだけど、私はそれに気付いていなかった。中学校に通えなくなったら人生が終わると思っていて、そこが何よりも肝心だと思っていた。あの頃は人生が本当に辛くて、夜、薬を飲むときに、「これ全部飲めば死ぬことができるのかなあ」と毎日思っていたし、1週間に1回くらい実際にその言葉を口にしていた。でも、あの時にそんな自殺未遂のようなことをしたら一発で入院が決まっていたと思うから、本当にやらなくてよかったと思う。

普通に生活することさえままならない状況だったのに、私はその頃とにかく「なんとしても学校に通わなくちゃ」「勉強しなきゃ」「頑張って生きなきゃ」という強迫観念にとらわれていた。だからどんなに精神状態が悪くても本気で自殺しようとは思わなかったし、学校に通ったし、狂ったように勉強していた。

なにがこんなに私の精神状態を最悪にしてしまったのだろうか。そう考えるとそれは小学校高学年時代に遡ることとなる。

まずは小学4年生の時に勃発した学級崩壊が辛かった。

shinnotsuma.hatenablog.com

 

でもそれ以上に私の心を苦しめたのは中学受験だったと思う。兄が先に中学受験専用の大手塾に通っていたため、小学校での成績が兄とあまり変わらなかった私は当然のようにそこに入れられた。しかし、私は兄とは違い、そこでの勉強についていくことが出来なかった。

自慢ではないが、小学校のテストではほとんど100点しかとったことがなかったし、都の学力テストでも全教科90点以上は取れていた。小学校での勉強なんて楽勝だと思っていた。進みが遅すぎてイライラしたぐらいだ。小学校でも完全に頭が一番良いキャラとして過ごしていた。それなのに、塾の勉強は全然出来なかった。

全然出来なかった訳ではないと思う。しかし、常に100点しかとったことのない私にとって、どんなに頑張ってもテストで50点、60点しか取れないのはかなり屈辱的だった。また、兄との比較もあった。兄はその教室に通っている100人くらいの生徒の中で1番の成績をずっと納め続けていた。この塾は入塾の際にテストを行い、その成績順でクラスが決まるのだが、そのテストの段階で兄はもう1位の成績を確保し、当然のように1番レベルの高いクラスに配属された。この塾の全国の生徒全員が参加する模試で、20位以内に入って表彰されたこともあった。それに比べると、私の成績はなんともお粗末なものだった。まず、最初のクラス分けで上から2番目のクラスにしか入れなかった。そのクラスの中でも成績上位に入ることは出来ず、真ん中くらいの成績だった。それに、塾に入る前はあんまり頭の良さが変わらないと思っていたし、周りにも思われていた兄とかなりの差がついてしまったことに戸惑いを隠せなかったのだと思う。

授業では、先生の言っていることを理解することが出来ないことが多かった。小学校では授業で理解できない事柄なんて一つもなかったけど。社会とか理科の暗記系もあまり良い成績を納めることはできなかった。覚える量が膨大すぎた。全国の主要な川の名前と特徴を一回の授業で教わり、その数日後の土日にはテスト、そしてその習った内容をずっと覚えていなければ前に進めない、そんな感じだった。兄は記憶力も半端ではなく、なんの事なしにそれらをこなしていっていた。

とにかく自分が惨めで惨めで仕方なかった。こんなに自分を惨めに思ったのはこの先の人生でもなかった。なんでこんなに出来ないのだろう、分からないことだらけ、理解できないことだらけなんだろうと途方に暮れていた。塾に行くのも楽しくはなく、割と早い段階から辛くなっていたんだと思う。でも、その頃は「通うのことや勉強しなければいけないのが辛い」とか「もうやめたい」という感情を自分の中で感知することさえできなかった。(書いていて、感情の発達の問題でそもそも「辛い」という感情を認識出来るようになるのは中学生くらいなのではないかなと思ったりした)とにかく「やらなければ」「頑張らなければいけない」という強迫観念しかなかった。そうやって辛い中頑張り続けてしまったことが精神衛生上良くなかったのだろう、私の精神状態はどんどん最悪な状況へと向かっていった。

勉強のこと以外にも辛いことはあった。徹底的な詰め込み教育だったから、平日は授業間の休み時間が10分しかなかった。その時間におにぎりを食べてお手洗いを済ませなければならない。まだ小学生で食べるのも遅かったから、これでさえもかなり苦痛だった。おにぎりを残すのも親に申し訳ないし、お手洗いに行かないわけにもいかない。おにぎりの味を楽しむこともできず、とりあえず口いっぱいに詰めて、大好きな午後の紅茶のミルクティーで流し込んで足早にお手洗いに行った。おにぎりもミルクティーも大好きで本当は美味しいはずなのに、塾で大急ぎで食べるそれらはまずくて仕方がなかった。

結局、この塾は6年生の最初の方に辞めることとなった。ある日、塾に行くために家を出発したものの、塾の中に入ることを考えると気分が悪くなって、塾に足を踏み入れることが出来なくなってしまった。そのまま街をウロウロと徘徊していたのだけれど、特にやることもなければ、外がだんだん暗くなってきて怖くなってきてしまったため、塾のあるビルに戻った。でもどうしても塾のあるフロアに足を踏み入れることが出来なくて、ビルの階段をウロウロしていたところを、行方不明になった私を探していた塾のスタッフに捕獲された。スタッフに捕獲されて、教室ではなく、いつもスタッフがいるところに座らされたけど、もう塾という空間に存在することすら嫌だったので、座りながらずーっと泣いていた。「これからまた塾に通わなきゃいけなくなるのかなあ、それだけは絶対に嫌だなあ」とか思っていた。こんなことがあっても、母親はまだ塾に通わせることを完全に諦められてはいなかった。私はこの頃、自分の感情がどうなっているのか知ることがまだ困難だったし、それを伝えることはもっと出来なかったので、なんで脱走したのかという問いに対して、「勉強が十分に出来ていなくて、テストを受けるのが嫌だったから」と親に説明した。母親はそれを言葉通りに受け取ったようで、「テストは延期になったから通い続けるのは問題ない」と判断したみたいだった。ただ、脱走時の異常な精神状態を感知した塾のスタッフと、私の父親、当時通っていた精神科医とカウンセラーの必死の説得があり、母親は塾に通わせるのをなんとか諦め、この塾はなんとか辞めることが出来た。まあそれでも母親は私に中学受験を続けさせることだけは諦められず、週2で家庭教師をつけて、目標を相当下げて中学受験させることは諦めなかったけど。

 

この経験から思うことは、かなりの高ストレス環境下にいておかしくなってしまいそうだと感じる人は、とにかくどんな手段を使ってでもそこから「逃げて」欲しいということだ。どんなに健全な精神を持ち、社会的に見て「普通」に生きてこられた人でも、高ストレス下でずっと耐えて続けていると、大抵精神をおかしくしてしまう。しかも、1回おかしくなってしまった精神はそう簡単には戻ることはない。もしかしたらもう一生元には戻らないかもしれない。

今までいわゆる「ドロップアウト」したと見られる色々な人にお会いしたけど、ドロップアウトして「なんとかならなかった」人を私は見たことがない。それまでのような物質的に豊かな暮らしは出来なくなったとしても、みなさん前を向いて、小さなことに幸せを感じたりして生きていらっしゃる。もちろん辛いこともたくさんあるだろうけど、それは逃げたって逃げなくたって一緒のことだ。

「逃げるな」とか「逃げたらやり直しがきかなくなる」とか世間は言ってくるけど、そう言う人たちは果たして自分のことを本当に考えてくれているのだろうか。今一度よく考えてみて欲しい。自分のことは自分が一番よく分かるはずだ。どんなに同じ経験や感情を共有したとしても、他人の気持ちを完璧に理解することなんて出来ない。結局自分の気持ちは自分でしか分からないのだ。

私は一番ストレスが高い状況に置かれたのが小学生の頃だったから、自分の辛いという気持ちもよく分からないまま、逃げ出すことも出来ずに、同じ環境で2年間も頑張り続けてしまった。

その結果、閉鎖病棟入院寸前まで精神を病み、それ以降10年以上に渡ってずっと苦しみ続けている。この歳になると、もう人生の半分以上が病気と向き合う生活となった。

今は環境をかなり変えたことで、病状はかなり改善されたけど、今でもこれからの人生で私が健全な精神でいるということはもうほとんど叶わないんだろうなと感じる。ちょうど2、3日前まで1ヶ月以上、毎日辛くて死にたいという気持ちにに苛まれていた。

ただ、今思うことは、暗くて先が見えないトンネルには、ちゃんと終わりがあって、いつか絶対にそこにたどり着けるということだ。暗いトンネルにいる時は、もうこの状態がずっと続くんじゃないかという絶望しか感じなくなってしまうけど、いつか絶対に終わりが来て、光が見える。だから、大事なことは光を目指して歩き続けることなのではないかと思う。ずっと暗いトンネルの中にいてはいけない。そのままでは最悪、死に至ってしまうかもしれない。私たちは生まれた以上、どんなに暗くて絶望的な道の途中でも、生きるために光を目指さなければいけないのだと思う。

そのために、「逃げて」欲しい。暗い道では、先を見通すことが出来ない。そんな時は、自分の心の声に従って歩いて行って欲しい。自分の心の声は一番正しいと思う。自分を良い方向に導いて行ってくれると思う。それを信じて、歩き続けて行って欲しい。いつか必ず光にたどり着けると思うから。

 

母親について思うこと

この間、といっても2週間くらい前、母親とあることで徹底的に対立してしまった。その時はかなり責められて、しかも通院のため実家に1泊したため、その間ずーっと責められているような状態となり、かなり精神的にキてしまった。母親はストレスがあるとすぐに寝られなくなってしまうため、2人とも夜中の3時まで言い合ったり、絶望的な気持ちになったり、泣いたりしていて、間違いなく人生で1番辛い夜だったと思う。こんなことになるために私は生まれた訳でも、母親は私を産んだ訳でもないのになあと考えてしまって、どうしようもなく心が辛かった。

通院が終わって逃げるように家に帰ったのだが、極限状態の精神状態の中、その道中で電車の乗り換えが上手く行かなかったこともあり、ホームに入ってくる電車を見てこのまま身を投げてしまおうかと本気で思った。ホームに電車が入ってくる時、何も感じずにプラットホームにいられるのは幸せなことなんだなとか思った。

家に帰って、夫に色々話している中で、やはり私の母親は少しおかしいという話になって(そんなことは分かっているはずなのになぜか実家に帰ると母親に母親が正しいのだと思い込まされてしまう)、夫に「まなさんの母親はまなさんを使って自分の人生を肯定しようとしているだけなんだよ。まなさんのためとか言って私の幸せのことなんて考えていない気がする」と言われた。それを聞いて、実家から帰ってきて間も無く、母親からの洗脳が完全に溶けておらず、精神が極限状態だった私は夫に向かって、「そんなの分かってるよ!!でも、私を産んで20年間育ててくれた母親をそんなひどい人だったなんて思いたくないじゃん!!!」と泣き叫んでいた。

後から思い返すと、極限状態で出たこの発言こそが私の本当の正直な気持ちだったんだろうなと思う。母親が少し間違っていることなんてもうとっくに気付いていた。私を基本的には否定してくるし、やりたいことを言っても、「どうせ失敗するからやめなさい」と言って挑戦すらさせてくれない、自分の歩んで欲しい人生を押し付けて実家に縛りつけようとするなどなどの行為を長期に渡って私にしていた。実際に暴力を受けたことはなかったけど、言葉の暴力だったり、精神的に追い詰めるというようなことは常にされていた。母親はどう考えても私の幸せを妨害する存在だったことは明らかだ。

でも、それでも、私は母親のことを心底嫌いになって、否定したり軽蔑することはどうしても出来ない。だって母親だから。理由は「母親だから」ただそれだけだ。

世の中の毒親に悩む子ども達が、もし、母親のことを心の底から嫌いになって憎い存在だと思たら、この世には「毒親問題」なんてものは存在しなくなるのだと思う。親子の関係というのはそれほどまでに深刻なものなのだ。

だから、私は母親と少し距離を置くことにした。会うと2人ともどうしようもなく辛くなってしまう。母親は今もずっと気を揉んでいるのだろうけど、会わなければそのことを私が心に病むこともない。少し冷たいと思われるかもしれないけど、母親は私が母親が思う人生から外れるたびに気を揉んでしまうので、それはもう私にはどうしようもない。 私には母親の望む人生を生きることは到底出来ないし、出来たとしても私が幸せになれないからだ。

いくら産んで育ててくれたとはいえ、親と子の人生は別々のものだ。そのことを理解した上で、自分の人生を一番に考えられるようになったら、それが自立の第一歩なのではないかなと思う。もちろん親のために生きたっていいし、生きなくたっていい。産んで育ててくれたからといって、その恩でずっと親のために生きる必要はどこにもない。今までありがとうという気持ちで、新たな場所に巣立っていけば良いのだ。今はそう思える。私はこれからも自分の思うようにずっと幸せに生きていきたいなあと思っている。

しょぼい喫茶店と私の話

昔から学校にまともに通えた事がほとんどなかった。それでもなんとかストレートで大学にまで入学した私、しかし、大学に通えなくなってしまい、人生に絶望した私は何の巡り合わせか東京の片隅にある「しょぼい喫茶店」の扉を叩いていた…


あの頃、私は人生に絶望していた。高校を中退してしまい、でもなんとか普通のレールに乗ろうと通信制の高校に入学した。そこで高校卒業の資格を得ることが出来、なんとか大学に入学する事が出来た。入学式、ここを卒業しさえすれば、まともな社会のレールに乗れる。ここで何とか頑張って卒業して就職しようそんな決意を新たにしていた。


しかし、1ヶ月で通う事が出来なくなってしまった。ゴールデンウィーク明けの登校日、私は朝起きて普通に電車に乗った。乗り換えの駅に着いた。降りなければ。でも、なぜか身体が動かない。行きたくないという気持ちが心と頭を支配している。でも降りなければ。こんなところで私の人生を終わらせるわけにはいかないのだ。ここで頑張って社会のレールに乗らなければ。大学は私に残された最後の希望なのに… 行かなければいけないことは理性では完璧に理解していた。通わなければどうなってしまうのか分かっていてとても怖かった。何としても行かなければ。ずっと心の中で葛藤したけど、結局その日大学に辿り着くことは出来なかった。まあ1日だけだろう。明日になれば行けるはずだ。そう思っていた。しかし、私は結局その後の1週間、この日と全く同じ事を繰り返してしまった。

 
人生が終わったと思った。もう死のうかとも思った。でもまだ18歳、ここで人生を諦めらる決断は私にはどうしても出来なかった。とりあえず大学のカウンセリングセンターに通うことにした。そこでカウンセリングを受ける中で、ADHDではないかと言われた。どんなにカウンセリングに通っても状況は改善されなかったこともあり、とりあえずテストを受けることになった。


結果、ADHDとの診断を受けた。とりあえず治療を開始した。ADHDは生まれつきの脳の障害なので、治るということはないのだけれど、改善されることはあるということだったので、頑張って治療に励んだ。

 
それから1年、だいぶ症状が改善した私は、同じようなADHDの人達と交流してみたいという気持ちが起こるようになっていた。とりあえずADHDの人達が集まる女子会に行ってみた。そこで知り合った方のSNSでしょぼい喫茶店の存在を知った。

 
その頃には、私は大学を辞め、通信制の大学に通う決断をしていた。大学を卒業して資格を取得すれば働く事もできる。高校も通信制だったし、興味がある分野でもあったので、なんとか頑張ろうと思っていた。

 
しかし、ここもダメだった。私は昔からレポートを書くのが絶望的に出来ないのだ。「適当に書けば良いじゃん、なんとなくでいけるよ」とよく言われるのだが、私は絶望的に適当が出来ない。完璧主義で、0か100しか存在しないので、自分の中で100にならないとどうしても提出する事が出来ない。大学のレポートなんて100点満点の答えはないわけなので、上手く行くはずがない。

 
ここが本当の絶望だったのだと思う。もう私は普通に社会のレールに乗って生きるということが出来ないのだなという絶対的な諦めを感じた。もうダメだ。生きていけない。やっぱり死のうかな。しかし、やはりどうしても死ぬ決断が出来なかった。今になっては死ななくて良かったと思うけど、この時はこんなにダメなのに死ぬ決断すら出来ないなんて本当にただのクズだな、自分本当に死ねば良いのにという気持ちだった。

 
私はどこかに救いを求めることを辞められなかった。私が初めてしょぼい喫茶店を訪れたのは、そんな時だった。

 
初めて訪れたしょぼい喫茶店は、とても居心地が良かった。普段いる忙しない世界とは全く違う、ゆるやかで穏やかな空気に満ち溢れていた。そこで池田さん、おりんさん、たまたま来店していたお客様に人生相談のようなことをした。今から思えば、飲食店でそんな事をするのは甚だおかしい事なのだが、人生に切羽詰まりすぎていたのだと思う。でも、池田さん、おりんさんはちゃんと私の話を聞いてくださった。人生について赤裸々に話す事が出来る人が周りにいなかった私にとっては、それだけでもかなり救われた。


この日ですっかりしょぼい喫茶店のファンになってしまった私は、1週間後、またしょぼい喫茶店を訪れていた。驚いた事に、池田さんは私のことを覚えてくださっていて、更に驚いた事に私が話した内容まで覚えてくださっていた。私はもうそれだけで感動してしまっていた。


実はこの時、自分で生きていけないなら私は結婚して養って貰えば良いのではないかという考えを持っていて、周囲の人によく結婚したいと言っていた。もともと結婚はしたかったし、するなら若い方がまだ貰い手がいるのではないかと考えていた。私のような欠陥品を貰ってくれる人がいるとはあんまり考えられなかったけど…でも今から結婚相手を探す事は別に悪い事ではないと思った。頑張って生きている人からすれば、なんて安直でバカなんだと思われると思うけど、人生が八方塞がりで取り敢えず生きていくことだけを考えていた私は結構真剣だった。


そんな話をしている折、池田さんに今の夫を勧められた。「○○さん良いと思いますよ。ここの常連さんなんですけど、いつもニコニコしてて優しくてとても良い人なんですよ」と言われた。

 
それが去年の5月初旬、私はまだ夫と会ったことすらもなかった。


しかし、夫との出会いは案外早く訪れる事となった。最初に出会ったのは5月終わり、都内のバーでたまたま会う事が出来た。そして次の日もしょぼい喫茶店でたまたま鉢合わせした。といっても、2人ともしょぼい喫茶店の常連だったので、そこで出会うことは必然だったとも言える。

 
その後は色々な事があったけど、結局7月の終わりに結婚する運びとなった。5月の終わりに出会ってからわずか2ヶ月。結婚の報告はもちろん池田さんとおりんさんのお二人に一番最初にさせていただいた。


今でもお二人が居なかったら結婚する事は無かったのではないかなと考えることがある。結婚を決めたのは私達だけれど、最初のきっかけを作ってくださったのは間違いなく池田さんとおりんさんのお二人だ。

 
また、もし、しょぼい喫茶店に出会っていなかったらと今も思う。出会っていなかったら、私はまだ絶望で真っ暗な人生を歩んでいたのではないかと。

 
池田さん、おりんさんは私を救おうという気持ちは無かったのだろうと思う。どんなに頑張っても人が人を救う事は出来ない。ただ、あまりにも人生に行き詰まっている私に少しのきっかけをくださった。結果的にそのきっかけが私の人生を大きく変える事となったのだが。私はお二人としょぼい喫茶店という場所に勝手に救われたのだと思う。

 
池田さんがここに来て、人生で苦しいこと、辛いことを話して共有しても、一歩外に出ればまた辛い現実が待っているかもしれない。だから私達は辛い人を救ってあげる事は出来ないとおっしゃっていた。確かにその通りだと思う。どんなに辛い思いを共有したって、それで辛い現実が変わるわけではない。一歩外に出れば辛い現実が待っている。それでも、辛いことを共有して、それでもみんな頑張って生きているということを感じることで、私も後もう少しだけ頑張ってみようと思えるのだと思う。今ここからまた一歩踏み出そうと思えるのだと思う。人生がどうしようもなく辛くなってしまった時、しょぼい喫茶店に行き、そこで色々な方と話したり、ゆったりとした時間を過ごすことで、もうちょっと頑張ってみよう、生きてみようと思える。しょぼい喫茶店とはそういう場所なのだと思う。

 

これは私の人生の話で、しょぼい喫茶店に行けば皆さん救われますよという話ではない。ただ、本当にたまたま、私はしょぼい喫茶店と池田さん、おりんさんによって勝手に救われたという話だ。

 

人生は本当にままならなくて辛いことばかりだけれど、辛い時に行けば、また頑張ろうと思える場所がある、それだけですごく幸せなことなのだなと思う。

 

最後に今の私を作ってくださった、私の大好きな場所であるしょぼい喫茶店の店主、池田さんとおりんさんが書いた『しょぼい喫茶店の本』が4月10日に百万年書房さんより発売されます。

しょぼい喫茶店の本

しょぼい喫茶店の本

 

この本が、そしてしょぼい喫茶店が、また誰かの背中を少しだけ押すことになってくれればと願わずにはいられません。

 

少しでも気になった方は、ぜひ本をお手にとっていたただき、願わくばしょぼい喫茶店に実際に足を運んでいただければと思っています。

 

1人でも多くの人にこの本が届きますように。  

 

犬に足を舐められた日

今日はなぜか朝7時に起きた。2度寝しようと思ったけど寝られなかったので布団でゴロゴロしていた。11時近くになってかなりお腹が空いてきたのでカルボナーラを作って食べた。その後、洗面台の掃除をした。ここ何日か体調が最悪で寝たきりだったので、やることはたくさんあったのだが、ちょっと疲れたので一旦布団に戻った。2度寝できそうだなあと思っていたら夫が起きて来たので夫にもカルボナーラを作って食べさせて仕事に行くのを見送った。明日がダンボールの収集日だったので2人で大量のダンボールを車に積んで、仕事に行く前に夫にゴミ出ししてもらった。ADHDはなかなか資源物や不燃ゴミなどのゴミが捨てられなかったりして大変だ笑。その後は夜ご飯のカレー作りとトイレ掃除と部屋の掃除をした。今日は天気が良くて暖かかったので出かけようと思っていたのだが、やるべきことをすべて終えたら15時を過ぎていた。天候が良かったのでお散歩がてら歩いてショッピングモールまで行った。ショッピングモールの周りに小さな公園とワンちゃんの小さな公園みたいなものがあって、時間帯もちょうど良かったのか今日は色々な人がそこに集まっていた。なんとも平和で暖かな光景だった。ショッピングモールで買いたいものがあったのだが、体調を崩しているうちに売り切れてしまったようでちょっとショックだった。しょうがないので用はないけどなんとなくいつも行く本屋に寄った。そこの本屋の隣にブックカフェみたいなものがあって、そこは私営図書館のような取り組みを行っておて、そこに置いてある本(数はかなり少ない)は貸し出しができるようになっている。というのを今日改めて知った笑。(今までなんとなくは知っていたのだが、ちゃんと仕組みを理解したのは今日だった)そこは通常学生などが多くて気軽に入れる雰囲気だはないのだが、今日は時間帯が少し早めだったので、中をじっくり見ることができた。本棚を見てみると、割と最近人気になった本や、有名なミステリー作家の本などが揃っていて、結構私の好みの感じだった。借りてみたいなあと思ったのだが、カードを作らなければならないらしく、その対応をするコンシェルジュが月・水・金しか常駐していないとのことだった。少し残念だが、明日も晴れるみたいなので行ってみようかな。

久しぶりに動いたのでここまでで結構疲れてしまって、ソファで休んでいたのだが、帰った方がリラックスできるなと思って家まで帰った。帰る途中に、犬を散歩していたおじいさんとすれ違ったのだが、その犬がとてもすばしっこくて、おじいさんが気付かない間に私の方にシュシュシュッと寄って来て足を舐めてきた笑。おじいさんが気付く頃にはもう私の足を舐めていて、めちゃくちゃ俊敏な犬だなあと感心してしまった笑。それと、明日は不燃ゴミの収集日らしいことが分かって、こちらも家に溜まっていたので出そうと思い、家に帰ってゴミを持ってまたゴミ出しに行った。

家に帰ってとりあえずご飯を炊いて、お風呂の掃除をした。お風呂は毎日必要なところは洗っているけど、壁とかはあまり掃除しないので、今日は全体的に頑張って掃除した。夫が夜ご飯を食べて帰ってくるとのことだったので1人で夜ご飯を食べた。

なんでもない1日だったけど、やらなければいけないなと思っていたことがほとんど完璧に出来たし、色々な収穫もあって良い日だったなあ。

結婚当初のこと

初めて新居に足を踏み入れたのは8月の暑い盛りの朝だった。人生最大の修羅場を乗り越えたその足で、その前の日は名古屋へ行っていた。

今から思い返すと、結婚した当時夫は今の会社に入っておらず、収入も安定してはいなかった。ただ、当時の私からすれば、とりあえず雨風が凌げる場所と、とりあえずの食べる物と、後は夫がいればなんでも良かった。なぜかこのまま一緒に過ごしていけると信じて疑わなかった。白くて綺麗なワンルームの住居には家電は何も置いていなかった。冷蔵庫も洗濯機も何もかも。初めて買った家電は炊飯器だ。結婚祝いにもらったお米があったので、これを炊いて食べようと言って買った。しかし白いご飯だけでは食べられないのでわかめご飯にしようと、夫がわかめを買ってきて、塩抜きもせずにそのまま炊飯器に白米とわかめを入れて炊いたわかめご飯もどきは、とても食べられたものではなかった。

まよいがもオープン前でオープンの準備で毎日お店に通った。昼に起きて、真夏の日差しの中、洗濯物を担いでコインランドリーまで自転車を走らせる。濡れた重い洗濯物をまた担いで持って帰って、ベランダに干した。その後は掃除をしたりご飯を食べたりしてお店に行く。帰ってくる頃にはもう夜中になっていた。夜中はもうどこのお店も閉まっていて、それでも喉が乾くので、家の前の自販機で2人で100円のジュースを買って飲んだ。自炊することも出来なかったので毎日のように食べていた牛丼やお弁当は2週間ほどで飽きてしまった。

先の見通しも立たないそんな生活だったけど、不思議といつも心は満たされていた。辛いと感じることは全くなかった。ただ今を生きるのに精一杯だった。

あれから半年、引越しをして家電も揃い、今は夫の固定収入で暮らしていけている。まよいがも店長が就任し、連日イベントが行われ、平日でも満員のお客様がいる。少しずつではあるがコミュニティも形成されつつある。半年で色々なことが変わったけれど、全て良い方向に行っている気がする。やっぱりあの時の私の決断は間違いじゃなかった。今なら自信を持ってそう言い切れる。

人生の振り返り4 〜中学校が今でも嫌いだ〜

中学の時のことは辛いのであまり思い出したくないのだが、話が繋がらなくなるので書こうと思う。

中学に入学した時は一番精神状態がヤバかったと思う。人間関係など色々なストレスでまた強迫行動が始まってしまった。今度の強迫行動は、「建設中のスカイツリーを見続ける」というものだった。実家の階段の踊り場からスカイツリーが見えたのだが、私が中学に入学する頃、ちょうど建設の真っ最中だった。あの時のスカイツリーは本当に凄くて、毎日少しずつスカイツリーが出来ていっていた。つまり、1日1日で形がどんどん変わっていくということだ。この状態が強迫観念に拍車をかけたみたいで、「このスカイツリーの状態は今日じゃなきゃ見られないんだぞ」と脳が話しかけて来て、見るのをどうしても辞められなかった。それに私は昔から夕方に精神が不安定になる特徴があって、特に夕方に症状がひどく現れた。朝と昼は明るく、夜は暗いだけなので、1日1回外に出てスカイツリーを見れば気が済むのだが、夕方は刻一刻と日が沈んでいって、その度に光の反射などで情景が変わる。それがとても気がかりで、日が陰り始めてから完全に日が沈むまで踊り場を離れる事が出来ず、ずっと泣きながらスカイツリーを見ていた。正直、何を言ってるから分からない方も多いと思う笑。でも、この時の私の状態はそんな感じだった。

 そんな精神状態だったので、学校でも少し言動がおかしな部分があったのだと思う。それと、大人しいのに1番最初の中間試験で学年1位を取ってしまったことから、私への嫌がらせが始まった。最初は、私が仲良くしたいと思っていた女の子を自分達のグループに引き込み、徹底的にその子と離すという嫌がらせだった。それで私が少し落ち込んだのが嬉しかったのか、嫌がらせはエスカレートしていった。私が授業中に発言すると、ヒソヒソ笑われたり、聞こえる声で悪口を言われたりした。後はお手洗いに立った時に私の席とその周りの席を占領し、私が帰った時に座る席をなくして私の反応を楽しんだりとか。覚えている限りはそんなものだ。

そんな中でも少しの希望はあった。私と仲良くしてくれる子もいたのだ。私が1番覚えているのは、私が「ひーちゃん」と呼んでいた女の子だった。彼女は明るく面白くて、私に嫌がらせしてくる1軍女子とも仲良く出来るのだが、どこか陰がある不思議な子だった。その子とは、帰りの電車が同じ線だった事で仲良くなり始めたのだと思う。最初は彼女の話を一方的に聞いているだけだったのだが、この子は話しても大丈夫そうだなと思ったので、私からも話すようになった。もう1つ仲良くなったきっかけがあって、それは彼女が立ち上げた同好会だった。彼女は1年生の最初の方に、賛同してくれる1軍女子と、高校生の先輩と園芸同好会を立ち上げていた。ひーちゃんのクラスの担任がちょっと変わっていたのだが、その先生が園芸が好きだったので、その活動を手伝うという意味があったのだと思う。立ち上げる時は面白がって賛同してくれた1軍女子も先輩も、活動が地味だったからか、だんだん参加してくれなくなり、ほとんどひーちゃん1人で細々と活動していた。そこに、少し仲良くなった私が招待されたのだ。私は精神状態が不安定で、とても部活動なんか出来る状態ではなく、何も部活をやっていなかったのでちょうど良かったのだろう。勉強以外特にやることもなかった私は参加する事にした。活動といっても、敷地内にあるお花に水やりをしたり、時々寄せ植えをして構内に飾るというようなものだった。しかし、この同好会でまだ少し活動してくれてい子はみんな良い子で、とても居心地が良かった。

もう1人覚えているのは、かすと呼んでいた女の子だった。彼女はなぜか入学当初から私の事を気に入っており、朝会うと、「まな〜〜」とか言って抱きついてきたりした。ちょっと変わった女の子だった。昔から一部の人に熱狂的に好かれるタチらしい笑笑。周りの女子はレズだとか言って嫌がっていたのだけど、私は別に嫌ではなかった。(私もその子もレズではない、断じて) その子は私の事を気に入っていたので、嫌がらせが始まっても関係なく私に話しかけてくれて、仲良くしてくれた。嫌がらせに落ち込んでいるといつも励ましてくれた。同好会の立ち上げメンバーでもあったのだが、活動に参加してくれていて、帰りが同じ線だったのでよく一緒に帰った。

その2人と私を中心に比較的成績の良い子達数人で同好会の活動をしていた。夏休みには大した活動もしないのに水やりのためだけに学校に集まって、水遊びをしたり笑、家にいたら勉強しないからとみんなで学校に集まって勉強したりしていた。勉強しに集まると言っても、みんなすぐに勉強に飽きてしまって、黒板に落書きして遊んでいたりした。そんな時にたまたま前を通りかかった体育教師に「勉強するっていうから教室貸してやってんだぞ、勉強しないなら帰れ!」と怒られてシュンとしたりした。A組とB組しかなかったのに、ひーちゃんとは3年間クラスが別だったので、休み時間にピロティーに出て、土ふるいをしながら将来の不安とか学校の不満とかを語り合ったりもした。ピロティーは先生方も通るので、数学教師に「お前ら、またやってんのか」と呆れられたりもした。別に土ふるいをしたくてやっているのではなかった。土ふるいという口実を作って、A組B組関係なく仲良い子達と集まって話すのが楽しいからやっていた。

しかし、この頃の私は生きるのがとても辛かった。まず学校に通うのが辛いのに、放課後や休みの日に勉強しなくてはという強迫観念に常に晒されている。その上、やれ部活をやれ、やれ趣味を見つけろ、やれ運動をしろと言われる。私にはそんな体力はない。学校に通っているだけで精一杯で、それさえもままならないのだ。そして実家に帰ると「家事を手伝え」という母親のヒステリーが待っている。それに加えて将来への言いようのない不安というのが常に心を支配していた。「こんなんじゃ将来生きていけるはずがない。どうしよう。」という不安でいっぱいで、部屋で一人で泣いたりしていた。将来が不安なら現在を変えていくしかないのだが、私には現在を変える体力なんてなかった。とにかく毎日学校に通う。それだけで体も心も限界だった。アルバイトが出来ないのでお金を使ってストレスを発散することも出来ない。とにかく学校に通って家に帰って1日1日をやり過ごすしかなかった。不安や強迫観念を心に抱え続けたまま、学校に行き、嫌がらせを受けながらも、仲の良い友人数人と将来への不安を話したり笑ったりふざけたりしながら不安を昇華させる。そんな日々だった。寝る前に薬を飲むのだが、ほぼ毎日「生きるの辛いなあ…この薬全部飲んだら死ねるのかな…」とか思っていた。しかし生きるのを諦めるにはあまりにも早すぎた。

中学生というのは逃げ場がない。自分自身も思春期のドロドロしたものを抱えながら、同じくドロドロしたものを抱えた同い年の子ども達と、みんなのドロドロした感情が渦巻いている学校に通い続けなければならない。そこから嫌がらせ、イジメなども発生する。しかし、アルバイトをすることも出来ないし、お金を稼ぐことも派手に使うことも出来ない。とにかくその日々をやり過ごすしかない。その道から逸れることは許されない。

こんなこと考えてる人間がどれほどいるのか分からないけど、私は中学校というもの自体が嫌いだ。私の中学校以外でも、どの中学校に行っても同じようなものだったのではないかと思っている。とにかくみんな精神が未熟すぎるのだ。みんな他人との違いを許容することが絶望的に出来ない。みんな同じでなければ不安で不安で仕方ないのだ。その不安から少しでもみんなと違っている子を攻撃する。攻撃することで仲間との連帯感を得る。そんな場所だった気がする。

高校生になると、少しは他人との違いを許容することが出来るようになるし、部活がやりたくないならアルバイトするとか、稼いだお金でストレス発散するとか、学校に通うのが辛かったら通信制高校に行くとか、色々な選択肢が出来るようになるのだが、中学生というのはなぜこうも自由がないのだろうか… 本当に今思い返しても嫌になる。ただ、そこを生き抜けば少しは自由を得られるし、楽しいこともあるかもしれない。とにかく生きるしかない。生き抜くことでしか希望は生まれない。