人生の振り返りその3 〜暗黒の小学校高学年時代〜

小学4年生になり、担任の先生が変わった。青森県出身の22歳女性、要するに新任の先生だった。大学は東京だったようなのだが、最初のうちはとにかく津軽弁訛りが強かった。非常に子ども好きで明るく、溌剌とした先生だったのだが、新任だったため、勝手が分からず、生徒が何をしても怒るということがなかった。最初の1ヶ月は特に何もなく過ぎたが、2ヶ月くらい経った頃から地獄が始まった。何をしても怒らないことが分かった生徒(主に男子)達は授業中、先生の言うことを全く聞かず暴れ出し始めた。授業中、大声や奇声を発してみたり、先生をからかったり、教室内をウロウロしてみたり、遠くの席の友達のところへわざわざ行き、大声で話したり。とにかくひどい状況だった。授業などまともに出来たものではない。うるさくて先生が何を喋っているのかまったく分からなかった。そんな状況の中、私は過度のストレスから強迫性神経障害を発症した。

強迫性障害とは、ある特定の強迫行動がやめられなくなり、生活に支障を来すもの病気である。過度なストレスから発症する場合が多い。強迫行動には色々な種類があるのだが、私の場合は、「鏡を見るのがやめられない」だった。学校から帰って来るとずっと鏡を見ていた。洋服、被っているもの、髪型などを変えながら鏡を見続ける。自分でもやめたいのだが、やめることが出来ない。やめることが出来なくて嫌なので泣きながらずっと鏡を見続けていた。この時の気持ちを少し覚えているのだが、「この姿の私が見られるのは今この時しかない」という強迫観念が強すぎて、見るのをやめられなかった。やめようと思うたびに、脳が「この姿を見られるのは今この時しかないんだぞ」と話しかけて来るすごく嫌な感じだった。

この時、学校には通ってはいたのだが、学校に行くのが嫌だと言い出したらしく、母親が訳を尋ねると、「N君に殴られた。また殴られるのではないかと怖くて行きたくない。」と言ったらしい。それが不登校気味になる大きなきっかけになったみたいだ。私は殴られた事をもう覚えていないのだが、N君はキレると平気で他人を殴っており、担任教師にもそんな感じだったので、本当の事なのだろうなとは思う。

※N君のことはこちらに詳しく書いてあります

shinnotsuma.hatenablog.com

発症した理由は、学級崩壊もあるのだが、もう1つ、中学受験をするための塾に通い始めたのもあったと思われる。その塾は中学受験専門の大手塾だった。なぜそこに通うことになったかというと、私の住んでいた地域の学力レベルがとても低く、私の学区の中学は特に荒れていて、生徒が平日の昼に学校をサボって公園でタバコを吸っている生徒もいる中学校だったからだ。わたしの祖母が兄をそんなところには入れさせることが出来ないと考え、兄をその塾に入れたのだ。私は小学校では兄と同じくらい成績がよかったので、流れで私も入ることになった。その塾は、まず入塾テストの成績でクラス分けがされ、そのあとも全国模試の成績でクラスが変わる。それだけではなく、毎週行われるテストの成績順に席が決まるところだった。そのうえで、毎週テストの成績が総合成績と科目ごとの成績の両方、教室内に張り出された。そこで、兄よりも成績が良くないことに落ち込んだことや、勉強やテストのストレスがあったのだと思う。

あまりにも症状がひどいので、小さい時から通院していた小児科の医者に紹介してもらい、大学病院の児童精神科に通うことになった。そこでは毎回1時間くらい先生とカウンセリングをしていた。最初は服薬治療と鏡を見た回数をノートに書いて先生に見せるというやり方で治療をしていた。ノートに書くことで、回数が減ったら目に見えて分かるようになり、鏡を見る回数が減っていった気がする。昔のことなのであまり詳しくは覚えていない。あとは、最もうるさくて耐えられない授業3つを保健室で勉強するようになった。先生から課題を与えられて、それを解いて先生に提出していた。

4年生の授業で今でも覚えているのは、跳び箱をしていた体育の授業だった。5段、4段、3段と並んでいて、最初は3段でやっていた子も大体4段,5段に移動して練習していたところに、3段が空いたということで、いつも授業中に先生の言うことを聞かない問題児4,5人が3段の跳び箱で遊び始めた。問題児達は先生の言うことはどの授業でもほとんど聞かず、やりたい放題をやっていた。この授業では、3段を普通に飛ぶのではなく、その上で前転をしたり、アクロバット的なものをやっていた。もちろん先生は注意するのだが、何を言っても御構い無しでやっていた。何が印象に残っているのかというと、そのうちの1人、I君が、着地に失敗して右腕を骨折したのだ。いきなり「痛ってええ!」と言ってうずくまったのでみんな何かと思った。保健室に連行され、多分折れていると言われ、そのまま近くの病院の整形外科に運ばれ、1日戻って来なかった。体育の授業は半分くらいで中断になった気がする。まあ元々授業になっていないのでどうでも良いのだが。この話の更に面白いところが、この1ヶ月後くらいに地域の連合音楽会を控えていたことである。私の小学校は人数が少ないので4,5,6年合同で演奏することになっていた。その中で4年生は全員リコーダーを吹くことになっていたのだが、I君は右腕を骨折してしまったため、1人だけトライアングルを演奏することになったのである。ちなみにその合同音楽会は区のほとんどの小学校が参加し、ビデオにまとめられ、ばっちり写真も撮られている。これほど「ざまあみろ」と思ったことはない笑。更にこのI君は、同じ年にパソコン室に猛ダッシュしたもののドアの1歩手前ですっ転び、手首を大きく切る事件も起こしている。手首は大動脈が通っているので、保健の先生曰く、「もう少し深く切れてたら死んでた」らしい。1年で2度死にかけた男、最早伝説のI君である。

さて、そんな最悪の4年生を終えて、5年生になると早速担任の先生が変わった。その先生はベテラン教師で、学級崩壊した後のクラスを鎮める事で有名な先生だった。私の兄もその先生に担任をしてもらっていたので、心底安心した。しかし、ここで安心するのはまだ早かったのである。

担任教師が結構怖い先生だったので、授業をまともに聞かなかったり、騒いだりする子はいなかった。この頃には鏡を見るのは辞められていた。ただ、元々感覚過敏だった私には授業中の小さな音でも気になるようになってしまっていた。それと、中学受験の勉強が忙しくなってストレスが溜まっていたのか、ほとんど保健室登校していた気がする。朝、保健室に登校して、出られそうな授業だけ受けていた。そんな中、夏休み中にひょんなことから足を骨折してしまい、松葉杖生活になった私はもっと学校に行き辛くなった。

ちなみに不登校気味になったのは私だけではなかった。両親が中国人で、中国から日本に来て、私の通っていた小学校に3年生のときに転校して来た女の子が居たのだが、その子も学校に行くのをすごく嫌がっていた。彼女は日本語のイントネーションが少し違っていたことや、中国との文化の違いなどで、問題児達の格好の攻撃の的だった。普通に「ブス!」や「デブ!」などと言われていた。N君が一番攻撃していたのもこの子だった。その子は学校に行くのが嫌すぎて自宅を出る時に泣くらしいのだが、父親が有無を言わせず引きずって学校に連れて来ていた。一度、その子がそれでも抵抗して、学校の校門の前で大声で泣きながら動かないのを父親が何か言いながら(中国語なので分からない)引っ張って中に入れようとしているのを目撃した。その光景は今でも記憶に残っている。

後は人前で喋るのが苦手で、1年生の時に泣きながら1分間スピーチを15分くらいかけてしていたKちゃん。1,2の時は人前で喋るのは少し苦手だったものの、普通に友達と話したり笑ったりしていたのだが、3年生の後期くらいから喋らないし笑わない子になってしまった。その子もあんまり喋らないことから問題児達にたまにイジられていて、学校にいる事がすごいストレスだったみたいだ。ただ、自分の意思表示がうまく出来なかったので、先生達がその子の気持ちに寄り添ってあげることがあまり出来ずにいた。彼女は嫌な事があると黙って保健室に行ってしまうことがあった。私もほとんど保健室に居たのだが、その子を保健の先生が教室に連れて行こうとして、泣きながら抵抗していたところを見た事がある。

6年生も担任の先生は同じだった。もう騒ぐ男子は結構静かになっており、最後にやはり問題児N君の問題が浮き彫りになっていった。N君は、どんなに先生が厳しく叱っても全く言うことを聞かなかった。それどころか、逆ギレして、先生に反抗するようになっていた。N君は、嫌な事があると保健室に逃げる事もあった。4年生頃までは一緒に騒いでいた男子も、N君の異常性に気付き始め、周りには誰も居なくなり孤立してしまっていた。

6年生に上がった頃から担任教師の態度も少しずつ変わっていった。今までどんな悪い奴でも、言うことを聞かせる事が出来た担任教師が、N君が言うことを聞かないことでおかしくなり始めた。どういう風におかしいのかと言うと、何かと「連帯責任」と言う言葉を好んで使い、生徒を叱るようになった。N君がどんなに叱っても言うことを聞かない為、班などで(N君が原因で)問題が起こった時、班全員が悪いということになり、「連帯責任」を負わされて全員怒られた。

1例として、私の親友Mちゃんは、とてもしっかりしていて成績優秀、いつも先生から好まれる生徒で、5年生の頃は担任教師もMちゃんをとても気に入っていて、褒めちぎったり、色々な事を任せていた。それが、6年生の秋頃、体育の授業でN君と一緒のチームになり練習していたところ、N君が例のごとくふざけ始め、全く練習が出来なかった。そのことに怒った先生は、ふざけてチームメンバーの練習を邪魔していたN君ではなく、それを注意しなかったチームメンバーを怒ったらしい。この頃は、あまりにもN君がいう事をきかないので担任教師もストレスで少し狂っていたのだと思う。地獄だった。

それともう一つ大きな変化があった。保健の教師の事だ。5年生の頃までは、保健の先生がすごく良い先生で大好きだったので、まだ保健室登校出来ていたのだが、6年生になると、それまでとは打って変わったポンコツ教師になってしまった。保健室登校もし辛い。そんな中、受験のストレスに押しつぶされ、ついに塾にも通えなくなり、塾を辞め、家庭教師を付けてもらうようになった。この頃から母親の母校である中高一貫校を受けることが決定した。その中学校は出席日数に厳しく、小学校の6年生の前半の通知表を提出しなければならなかった為、死ぬ物狂いで小学校に通った。

なんとか前半を乗り切り、オールAで出席日数も少ない通知表を獲得した。しかし、そこで力尽きた私は完全なる不登校になった。この頃には4年生から通っていた児童精神科の先生にもあまりにも症状が酷すぎるということで匙を投げられた。その先生を紹介してくれた小児科の先生に相談に行き、カウンセリングを受けるようになった。そして、そのカウンセラーに紹介された新たな児童精神科に通う事になり、薬も変わり、毎日、何時に起きて何時に寝たかという事を記録するようになった。そんな最悪の状況の中、執念で中学受験をし、無事合格した。

書いていて、黒歴史すぎて辛くなってきた。更に救いの無いことを言うと、5、6年を担任してくれた教師はN君が原因で鬱病になり、定年前に退職する事となった。ちなみに彼女の旦那さんも鬱病で退職してしまった教師だった。色々な人の人生を狂わせたN君。彼と同じ中学校に行った友達に聞いたところ、彼は何か事件を起こして中学校を退学になり、少年院に入ったらしい。N君は気に入らない事があるとキレて平気で他人に暴力を振るう子だったので、他人にキレて暴力を振るったところ、相手が怪我をしてしまい、傷害事件になったということなのだろうと想像する。全く救いのない話である。