安藤まなのてきとー日記

22歳 発達障害の母の日記です

犬に足を舐められた日

今日はなぜか朝7時に起きた。2度寝しようと思ったけど寝られなかったので布団でゴロゴロしていた。11時近くになってかなりお腹が空いてきたのでカルボナーラを作って食べた。その後、洗面台の掃除をした。ここ何日か体調が最悪で寝たきりだったので、やることはたくさんあったのだが、ちょっと疲れたので一旦布団に戻った。2度寝できそうだなあと思っていたら夫が起きて来たので夫にもカルボナーラを作って食べさせて仕事に行くのを見送った。明日がダンボールの収集日だったので2人で大量のダンボールを車に積んで、仕事に行く前に夫にゴミ出ししてもらった。ADHDはなかなか資源物や不燃ゴミなどのゴミが捨てられなかったりして大変だ笑。その後は夜ご飯のカレー作りとトイレ掃除と部屋の掃除をした。今日は天気が良くて暖かかったので出かけようと思っていたのだが、やるべきことをすべて終えたら15時を過ぎていた。天候が良かったのでお散歩がてら歩いてショッピングモールまで行った。ショッピングモールの周りに小さな公園とワンちゃんの小さな公園みたいなものがあって、時間帯もちょうど良かったのか今日は色々な人がそこに集まっていた。なんとも平和で暖かな光景だった。ショッピングモールで買いたいものがあったのだが、体調を崩しているうちに売り切れてしまったようでちょっとショックだった。しょうがないので用はないけどなんとなくいつも行く本屋に寄った。そこの本屋の隣にブックカフェみたいなものがあって、そこは私営図書館のような取り組みを行っておて、そこに置いてある本(数はかなり少ない)は貸し出しができるようになっている。というのを今日改めて知った笑。(今までなんとなくは知っていたのだが、ちゃんと仕組みを理解したのは今日だった)そこは通常学生などが多くて気軽に入れる雰囲気だはないのだが、今日は時間帯が少し早めだったので、中をじっくり見ることができた。本棚を見てみると、割と最近人気になった本や、有名なミステリー作家の本などが揃っていて、結構私の好みの感じだった。借りてみたいなあと思ったのだが、カードを作らなければならないらしく、その対応をするコンシェルジュが月・水・金しか常駐していないとのことだった。少し残念だが、明日も晴れるみたいなので行ってみようかな。

久しぶりに動いたのでここまでで結構疲れてしまって、ソファで休んでいたのだが、帰った方がリラックスできるなと思って家まで帰った。帰る途中に、犬を散歩していたおじいさんとすれ違ったのだが、その犬がとてもすばしっこくて、おじいさんが気付かない間に私の方にシュシュシュッと寄って来て足を舐めてきた笑。おじいさんが気付く頃にはもう私の足を舐めていて、めちゃくちゃ俊敏な犬だなあと感心してしまった笑。それと、明日は不燃ゴミの収集日らしいことが分かって、こちらも家に溜まっていたので出そうと思い、家に帰ってゴミを持ってまたゴミ出しに行った。

家に帰ってとりあえずご飯を炊いて、お風呂の掃除をした。お風呂は毎日必要なところは洗っているけど、壁とかはあまり掃除しないので、今日は全体的に頑張って掃除した。夫が夜ご飯を食べて帰ってくるとのことだったので1人で夜ご飯を食べた。

なんでもない1日だったけど、やらなければいけないなと思っていたことがほとんど完璧に出来たし、色々な収穫もあって良い日だったなあ。

結婚当初のこと

初めて新居に足を踏み入れたのは8月の暑い盛りの朝だった。人生最大の修羅場を乗り越えたその足で、その前の日は名古屋へ行っていた。

今から思い返すと、結婚した当時夫は今の会社に入っておらず、収入も安定してはいなかった。ただ、当時の私からすれば、とりあえず雨風が凌げる場所と、とりあえずの食べる物と、後は夫がいればなんでも良かった。なぜかこのまま一緒に過ごしていけると信じて疑わなかった。白くて綺麗なワンルームの住居には家電は何も置いていなかった。冷蔵庫も洗濯機も何もかも。初めて買った家電は炊飯器だ。結婚祝いにもらったお米があったので、これを炊いて食べようと言って買った。しかし白いご飯だけでは食べられないのでわかめご飯にしようと、夫がわかめを買ってきて、塩抜きもせずにそのまま炊飯器に白米とわかめを入れて炊いたわかめご飯もどきは、とても食べられたものではなかった。

まよいがもオープン前でオープンの準備で毎日お店に通った。昼に起きて、真夏の日差しの中、洗濯物を担いでコインランドリーまで自転車を走らせる。濡れた重い洗濯物をまた担いで持って帰って、ベランダに干した。その後は掃除をしたりご飯を食べたりしてお店に行く。帰ってくる頃にはもう夜中になっていた。夜中はもうどこのお店も閉まっていて、それでも喉が乾くので、家の前の自販機で2人で100円のジュースを買って飲んだ。自炊することも出来なかったので毎日のように食べていた牛丼やお弁当は2週間ほどで飽きてしまった。

先の見通しも立たないそんな生活だったけど、不思議といつも心は満たされていた。辛いと感じることは全くなかった。ただ今を生きるのに精一杯だった。

あれから半年、引越しをして家電も揃い、今は夫の固定収入で暮らしていけている。まよいがも店長が就任し、連日イベントが行われ、平日でも満員のお客様がいる。少しずつではあるがコミュニティも形成されつつある。半年で色々なことが変わったけれど、全て良い方向に行っている気がする。やっぱりあの時の私の決断は間違いじゃなかった。今なら自信を持ってそう言い切れる。

人生の振り返り4 〜中学校が今でも嫌いだ〜

中学の時のことは辛いのであまり思い出したくないのだが、話が繋がらなくなるので書こうと思う。

中学に入学した時は一番精神状態がヤバかったと思う。人間関係など色々なストレスでまた強迫行動が始まってしまった。今度の強迫行動は、「建設中のスカイツリーを見続ける」というものだった。実家の階段の踊り場からスカイツリーが見えたのだが、私が中学に入学する頃、ちょうど建設の真っ最中だった。あの時のスカイツリーは本当に凄くて、毎日少しずつスカイツリーが出来ていっていた。つまり、1日1日で形がどんどん変わっていくということだ。この状態が強迫観念に拍車をかけたみたいで、「このスカイツリーの状態は今日じゃなきゃ見られないんだぞ」と脳が話しかけて来て、見るのをどうしても辞められなかった。それに私は昔から夕方に精神が不安定になる特徴があって、特に夕方に症状がひどく現れた。朝と昼は明るく、夜は暗いだけなので、1日1回外に出てスカイツリーを見れば気が済むのだが、夕方は刻一刻と日が沈んでいって、その度に光の反射などで情景が変わる。それがとても気がかりで、日が陰り始めてから完全に日が沈むまで踊り場を離れる事が出来ず、ずっと泣きながらスカイツリーを見ていた。正直、何を言ってるから分からない方も多いと思う笑。でも、この時の私の状態はそんな感じだった。

 そんな精神状態だったので、学校でも少し言動がおかしな部分があったのだと思う。それと、大人しいのに1番最初の中間試験で学年1位を取ってしまったことから、私への嫌がらせが始まった。最初は、私が仲良くしたいと思っていた女の子を自分達のグループに引き込み、徹底的にその子と離すという嫌がらせだった。それで私が少し落ち込んだのが嬉しかったのか、嫌がらせはエスカレートしていった。私が授業中に発言すると、ヒソヒソ笑われたり、聞こえる声で悪口を言われたりした。後はお手洗いに立った時に私の席とその周りの席を占領し、私が帰った時に座る席をなくして私の反応を楽しんだりとか。覚えている限りはそんなものだ。

そんな中でも少しの希望はあった。私と仲良くしてくれる子もいたのだ。私が1番覚えているのは、私が「ひーちゃん」と呼んでいた女の子だった。彼女は明るく面白くて、私に嫌がらせしてくる1軍女子とも仲良く出来るのだが、どこか陰がある不思議な子だった。その子とは、帰りの電車が同じ線だった事で仲良くなり始めたのだと思う。最初は彼女の話を一方的に聞いているだけだったのだが、この子は話しても大丈夫そうだなと思ったので、私からも話すようになった。もう1つ仲良くなったきっかけがあって、それは彼女が立ち上げた同好会だった。彼女は1年生の最初の方に、賛同してくれる1軍女子と、高校生の先輩と園芸同好会を立ち上げていた。ひーちゃんのクラスの担任がちょっと変わっていたのだが、その先生が園芸が好きだったので、その活動を手伝うという意味があったのだと思う。立ち上げる時は面白がって賛同してくれた1軍女子も先輩も、活動が地味だったからか、だんだん参加してくれなくなり、ほとんどひーちゃん1人で細々と活動していた。そこに、少し仲良くなった私が招待されたのだ。私は精神状態が不安定で、とても部活動なんか出来る状態ではなく、何も部活をやっていなかったのでちょうど良かったのだろう。勉強以外特にやることもなかった私は参加する事にした。活動といっても、敷地内にあるお花に水やりをしたり、時々寄せ植えをして構内に飾るというようなものだった。しかし、この同好会でまだ少し活動してくれてい子はみんな良い子で、とても居心地が良かった。

もう1人覚えているのは、かすと呼んでいた女の子だった。彼女はなぜか入学当初から私の事を気に入っており、朝会うと、「まな〜〜」とか言って抱きついてきたりした。ちょっと変わった女の子だった。昔から一部の人に熱狂的に好かれるタチらしい笑笑。周りの女子はレズだとか言って嫌がっていたのだけど、私は別に嫌ではなかった。(私もその子もレズではない、断じて) その子は私の事を気に入っていたので、嫌がらせが始まっても関係なく私に話しかけてくれて、仲良くしてくれた。嫌がらせに落ち込んでいるといつも励ましてくれた。同好会の立ち上げメンバーでもあったのだが、活動に参加してくれていて、帰りが同じ線だったのでよく一緒に帰った。

その2人と私を中心に比較的成績の良い子達数人で同好会の活動をしていた。夏休みには大した活動もしないのに水やりのためだけに学校に集まって、水遊びをしたり笑、家にいたら勉強しないからとみんなで学校に集まって勉強したりしていた。勉強しに集まると言っても、みんなすぐに勉強に飽きてしまって、黒板に落書きして遊んでいたりした。そんな時にたまたま前を通りかかった体育教師に「勉強するっていうから教室貸してやってんだぞ、勉強しないなら帰れ!」と怒られてシュンとしたりした。A組とB組しかなかったのに、ひーちゃんとは3年間クラスが別だったので、休み時間にピロティーに出て、土ふるいをしながら将来の不安とか学校の不満とかを語り合ったりもした。ピロティーは先生方も通るので、数学教師に「お前ら、またやってんのか」と呆れられたりもした。別に土ふるいをしたくてやっているのではなかった。土ふるいという口実を作って、A組B組関係なく仲良い子達と集まって話すのが楽しいからやっていた。

しかし、この頃の私は生きるのがとても辛かった。まず学校に通うのが辛いのに、放課後や休みの日に勉強しなくてはという強迫観念に常に晒されている。その上、やれ部活をやれ、やれ趣味を見つけろ、やれ運動をしろと言われる。私にはそんな体力はない。学校に通っているだけで精一杯で、それさえもままならないのだ。そして実家に帰ると「家事を手伝え」という母親のヒステリーが待っている。それに加えて将来への言いようのない不安というのが常に心を支配していた。「こんなんじゃ将来生きていけるはずがない。どうしよう。」という不安でいっぱいで、部屋で一人で泣いたりしていた。将来が不安なら現在を変えていくしかないのだが、私には現在を変える体力なんてなかった。とにかく毎日学校に通う。それだけで体も心も限界だった。アルバイトが出来ないのでお金を使ってストレスを発散することも出来ない。とにかく学校に通って家に帰って1日1日をやり過ごすしかなかった。不安や強迫観念を心に抱え続けたまま、学校に行き、嫌がらせを受けながらも、仲の良い友人数人と将来への不安を話したり笑ったりふざけたりしながら不安を昇華させる。そんな日々だった。寝る前に薬を飲むのだが、ほぼ毎日「生きるの辛いなあ…この薬全部飲んだら死ねるのかな…」とか思っていた。しかし生きるのを諦めるにはあまりにも早すぎた。

中学生というのは逃げ場がない。自分自身も思春期のドロドロしたものを抱えながら、同じくドロドロしたものを抱えた同い年の子ども達と、みんなのドロドロした感情が渦巻いている学校に通い続けなければならない。そこから嫌がらせ、イジメなども発生する。しかし、アルバイトをすることも出来ないし、お金を稼ぐことも派手に使うことも出来ない。とにかくその日々をやり過ごすしかない。その道から逸れることは許されない。

こんなこと考えてる人間がどれほどいるのか分からないけど、私は中学校というもの自体が嫌いだ。私の中学校以外でも、どの中学校に行っても同じようなものだったのではないかと思っている。とにかくみんな精神が未熟すぎるのだ。みんな他人との違いを許容することが絶望的に出来ない。みんな同じでなければ不安で不安で仕方ないのだ。その不安から少しでもみんなと違っている子を攻撃する。攻撃することで仲間との連帯感を得る。そんな場所だった気がする。

高校生になると、少しは他人との違いを許容することが出来るようになるし、部活がやりたくないならアルバイトするとか、稼いだお金でストレス発散するとか、学校に通うのが辛かったら通信制高校に行くとか、色々な選択肢が出来るようになるのだが、中学生というのはなぜこうも自由がないのだろうか… 本当に今思い返しても嫌になる。ただ、そこを生き抜けば少しは自由を得られるし、楽しいこともあるかもしれない。とにかく生きるしかない。生き抜くことでしか希望は生まれない。

過去の自分へ

昨日、夫に「まなさんがへこたれてる所なんて見た事がないし、まなさんならどんなことでも乗り越えていけると思う」と言われた。

結婚して分かったことなのだが、私は辛い事、嫌な事がたくさんあってもへこたれることなく、前を向いて歩く事が出来るみたいだ。そして結構根性もある。自分では気付かなかったけれど、夫が見つけてくれた。そうでなかったら、絶望しかないような人生を生き抜いて来られなかったのだろう。自分はネガティブだと思っていたので意外だった。今はすごく幸せなので生きていて良かったなと思う。今、過去の自分に伝えたい事は、「それでも生きていて偉いね」だ。どんな事があっても生きる事を諦めず、前を向こうとする事、それだけでものすごく偉いと今は思う。生きる事を諦めず、幸せになる為に行動を起こせば、そのうち小さな幸せにたどり着けるかもしれない。

夫は私の良いところをたくさん発見してくれる。あとは行動力がある所、大事な事を即座に決断出来る所、優しい所などがあるらしい。性格も好きと言ってもらえるのはかなり嬉しい。性格というのは育った環境が創っていくものだと思うので、今までの人生が肯定された気がするからだ。私が単純すぎるのかな笑。

昨日は暗黒の長文ブログを書いてしまったので、今日はこのくらいで。

最後に1言

「過去の自分、どんなに辛くても生きていてくれてありがとう」


人生の振り返りその3 〜暗黒の小学校高学年時代〜

小学4年生になり、担任の先生が変わった。青森県出身の22歳女性、要するに新任の先生だった。大学は東京だったようなのだが、最初のうちはとにかく津軽弁訛りが強かった。非常に子ども好きで明るく、溌剌とした先生だったのだが、新任だったため、勝手が分からず、生徒が何をしても怒るということがなかった。最初の1ヶ月は特に何もなく過ぎたが、2ヶ月くらい経った頃から地獄が始まった。何をしても怒らないことが分かった生徒(主に男子)達は授業中、先生の言うことを全く聞かず暴れ出し始めた。授業中、大声や奇声を発してみたり、先生をからかったり、教室内をウロウロしてみたり、遠くの席の友達のところへわざわざ行き、大声で話したり。とにかくひどい状況だった。授業などまともに出来たものではない。うるさくて先生が何を喋っているのかまったく分からなかった。そんな状況の中、私は過度のストレスから強迫性神経障害を発症した。

強迫性障害とは、ある特定の強迫行動がやめられなくなり、生活に支障を来すもの病気である。過度なストレスから発症する場合が多い。強迫行動には色々な種類があるのだが、私の場合は、「鏡を見るのがやめられない」だった。学校から帰って来るとずっと鏡を見ていた。洋服、被っているもの、髪型などを変えながら鏡を見続ける。自分でもやめたいのだが、やめることが出来ない。やめることが出来なくて嫌なので泣きながらずっと鏡を見続けていた。この時の気持ちを少し覚えているのだが、「この姿の私が見られるのは今この時しかない」という強迫観念が強すぎて、見るのをやめられなかった。やめようと思うたびに、脳が「この姿を見られるのは今この時しかないんだぞ」と話しかけて来るすごく嫌な感じだった。

この時、学校には通ってはいたのだが、学校に行くのが嫌だと言い出したらしく、母親が訳を尋ねると、「N君に殴られた。また殴られるのではないかと怖くて行きたくない。」と言ったらしい。それが不登校気味になる大きなきっかけになったみたいだ。私は殴られた事をもう覚えていないのだが、N君はキレると平気で他人を殴っており、担任教師にもそんな感じだったので、本当の事なのだろうなとは思う。

※N君のことはこちらに詳しく書いてあります

shinnotsuma.hatenablog.com

発症した理由は、学級崩壊もあるのだが、もう1つ、中学受験をするための塾に通い始めたのもあったと思われる。その塾は中学受験専門の大手塾だった。なぜそこに通うことになったかというと、私の住んでいた地域の学力レベルがとても低く、私の学区の中学は特に荒れていて、生徒が平日の昼に学校をサボって公園でタバコを吸っている生徒もいる中学校だったからだ。わたしの祖母が兄をそんなところには入れさせることが出来ないと考え、兄をその塾に入れたのだ。私は小学校では兄と同じくらい成績がよかったので、流れで私も入ることになった。その塾は、まず入塾テストの成績でクラス分けがされ、そのあとも全国模試の成績でクラスが変わる。それだけではなく、毎週行われるテストの成績順に席が決まるところだった。そのうえで、毎週テストの成績が総合成績と科目ごとの成績の両方、教室内に張り出された。そこで、兄よりも成績が良くないことに落ち込んだことや、勉強やテストのストレスがあったのだと思う。

あまりにも症状がひどいので、小さい時から通院していた小児科の医者に紹介してもらい、大学病院の児童精神科に通うことになった。そこでは毎回1時間くらい先生とカウンセリングをしていた。最初は服薬治療と鏡を見た回数をノートに書いて先生に見せるというやり方で治療をしていた。ノートに書くことで、回数が減ったら目に見えて分かるようになり、鏡を見る回数が減っていった気がする。昔のことなのであまり詳しくは覚えていない。あとは、最もうるさくて耐えられない授業3つを保健室で勉強するようになった。先生から課題を与えられて、それを解いて先生に提出していた。

4年生の授業で今でも覚えているのは、跳び箱をしていた体育の授業だった。5段、4段、3段と並んでいて、最初は3段でやっていた子も大体4段,5段に移動して練習していたところに、3段が空いたということで、いつも授業中に先生の言うことを聞かない問題児4,5人が3段の跳び箱で遊び始めた。問題児達は先生の言うことはどの授業でもほとんど聞かず、やりたい放題をやっていた。この授業では、3段を普通に飛ぶのではなく、その上で前転をしたり、アクロバット的なものをやっていた。もちろん先生は注意するのだが、何を言っても御構い無しでやっていた。何が印象に残っているのかというと、そのうちの1人、I君が、着地に失敗して右腕を骨折したのだ。いきなり「痛ってええ!」と言ってうずくまったのでみんな何かと思った。保健室に連行され、多分折れていると言われ、そのまま近くの病院の整形外科に運ばれ、1日戻って来なかった。体育の授業は半分くらいで中断になった気がする。まあ元々授業になっていないのでどうでも良いのだが。この話の更に面白いところが、この1ヶ月後くらいに地域の連合音楽会を控えていたことである。私の小学校は人数が少ないので4,5,6年合同で演奏することになっていた。その中で4年生は全員リコーダーを吹くことになっていたのだが、I君は右腕を骨折してしまったため、1人だけトライアングルを演奏することになったのである。ちなみにその合同音楽会は区のほとんどの小学校が参加し、ビデオにまとめられ、ばっちり写真も撮られている。これほど「ざまあみろ」と思ったことはない笑。更にこのI君は、同じ年にパソコン室に猛ダッシュしたもののドアの1歩手前ですっ転び、手首を大きく切る事件も起こしている。手首は大動脈が通っているので、保健の先生曰く、「もう少し深く切れてたら死んでた」らしい。1年で2度死にかけた男、最早伝説のI君である。

さて、そんな最悪の4年生を終えて、5年生になると早速担任の先生が変わった。その先生はベテラン教師で、学級崩壊した後のクラスを鎮める事で有名な先生だった。私の兄もその先生に担任をしてもらっていたので、心底安心した。しかし、ここで安心するのはまだ早かったのである。

担任教師が結構怖い先生だったので、授業をまともに聞かなかったり、騒いだりする子はいなかった。この頃には鏡を見るのは辞められていた。ただ、元々感覚過敏だった私には授業中の小さな音でも気になるようになってしまっていた。それと、中学受験の勉強が忙しくなってストレスが溜まっていたのか、ほとんど保健室登校していた気がする。朝、保健室に登校して、出られそうな授業だけ受けていた。そんな中、夏休み中にひょんなことから足を骨折してしまい、松葉杖生活になった私はもっと学校に行き辛くなった。

ちなみに不登校気味になったのは私だけではなかった。両親が中国人で、中国から日本に来て、私の通っていた小学校に3年生のときに転校して来た女の子が居たのだが、その子も学校に行くのをすごく嫌がっていた。彼女は日本語のイントネーションが少し違っていたことや、中国との文化の違いなどで、問題児達の格好の攻撃の的だった。普通に「ブス!」や「デブ!」などと言われていた。N君が一番攻撃していたのもこの子だった。その子は学校に行くのが嫌すぎて自宅を出る時に泣くらしいのだが、父親が有無を言わせず引きずって学校に連れて来ていた。一度、その子がそれでも抵抗して、学校の校門の前で大声で泣きながら動かないのを父親が何か言いながら(中国語なので分からない)引っ張って中に入れようとしているのを目撃した。その光景は今でも記憶に残っている。

後は人前で喋るのが苦手で、1年生の時に泣きながら1分間スピーチを15分くらいかけてしていたKちゃん。1,2の時は人前で喋るのは少し苦手だったものの、普通に友達と話したり笑ったりしていたのだが、3年生の後期くらいから喋らないし笑わない子になってしまった。その子もあんまり喋らないことから問題児達にたまにイジられていて、学校にいる事がすごいストレスだったみたいだ。ただ、自分の意思表示がうまく出来なかったので、先生達がその子の気持ちに寄り添ってあげることがあまり出来ずにいた。彼女は嫌な事があると黙って保健室に行ってしまうことがあった。私もほとんど保健室に居たのだが、その子を保健の先生が教室に連れて行こうとして、泣きながら抵抗していたところを見た事がある。

6年生も担任の先生は同じだった。もう騒ぐ男子は結構静かになっており、最後にやはり問題児N君の問題が浮き彫りになっていった。N君は、どんなに先生が厳しく叱っても全く言うことを聞かなかった。それどころか、逆ギレして、先生に反抗するようになっていた。N君は、嫌な事があると保健室に逃げる事もあった。4年生頃までは一緒に騒いでいた男子も、N君の異常性に気付き始め、周りには誰も居なくなり孤立してしまっていた。

6年生に上がった頃から担任教師の態度も少しずつ変わっていった。今までどんな悪い奴でも、言うことを聞かせる事が出来た担任教師が、N君が言うことを聞かないことでおかしくなり始めた。どういう風におかしいのかと言うと、何かと「連帯責任」と言う言葉を好んで使い、生徒を叱るようになった。N君がどんなに叱っても言うことを聞かない為、班などで(N君が原因で)問題が起こった時、班全員が悪いということになり、「連帯責任」を負わされて全員怒られた。

1例として、私の親友Mちゃんは、とてもしっかりしていて成績優秀、いつも先生から好まれる生徒で、5年生の頃は担任教師もMちゃんをとても気に入っていて、褒めちぎったり、色々な事を任せていた。それが、6年生の秋頃、体育の授業でN君と一緒のチームになり練習していたところ、N君が例のごとくふざけ始め、全く練習が出来なかった。そのことに怒った先生は、ふざけてチームメンバーの練習を邪魔していたN君ではなく、それを注意しなかったチームメンバーを怒ったらしい。この頃は、あまりにもN君がいう事をきかないので担任教師もストレスで少し狂っていたのだと思う。地獄だった。

それともう一つ大きな変化があった。保健の教師の事だ。5年生の頃までは、保健の先生がすごく良い先生で大好きだったので、まだ保健室登校出来ていたのだが、6年生になると、それまでとは打って変わったポンコツ教師になってしまった。保健室登校もし辛い。そんな中、受験のストレスに押しつぶされ、ついに塾にも通えなくなり、塾を辞め、家庭教師を付けてもらうようになった。この頃から母親の母校である中高一貫校を受けることが決定した。その中学校は出席日数に厳しく、小学校の6年生の前半の通知表を提出しなければならなかった為、死ぬ物狂いで小学校に通った。

なんとか前半を乗り切り、オールAで出席日数も少ない通知表を獲得した。しかし、そこで力尽きた私は完全なる不登校になった。この頃には4年生から通っていた児童精神科の先生にもあまりにも症状が酷すぎるということで匙を投げられた。その先生を紹介してくれた小児科の先生に相談に行き、カウンセリングを受けるようになった。そして、そのカウンセラーに紹介された新たな児童精神科に通う事になり、薬も変わり、毎日、何時に起きて何時に寝たかという事を記録するようになった。そんな最悪の状況の中、執念で中学受験をし、無事合格した。

書いていて、黒歴史すぎて辛くなってきた。更に救いの無いことを言うと、5、6年を担任してくれた教師はN君が原因で鬱病になり、定年前に退職する事となった。ちなみに彼女の旦那さんも鬱病で退職してしまった教師だった。色々な人の人生を狂わせたN君。彼と同じ中学校に行った友達に聞いたところ、彼は何か事件を起こして中学校を退学になり、少年院に入ったらしい。N君は気に入らない事があるとキレて平気で他人に暴力を振るう子だったので、他人にキレて暴力を振るったところ、相手が怪我をしてしまい、傷害事件になったということなのだろうと想像する。全く救いのない話である。

不幸せな学生時代と幸せな今

2月9日、13時起床。昨日はなぜか寝られなくなってしまって、4時まで起きていた。寝られなくてゴロゴロしていたのだけど、寝られないし飽きてきたので、制作中のアイロンビーズに取り掛かった。結構集中して出来て、気付いたら2時間半もやっていた。これで全体の3分の1くらい終わった。寝られなかったけど、アイロンビーズを進める事が出来たので、満足だった。

今日は夫の仕事が休みだったので、2人でファミレスに出掛けた。夫の仕事は休みと言っても、家で出来る作業は無限にあるので、ファミレスに行って作業していた。私は何をしていたのかと言うと、自分のレシピ本を作っていた。夫が1人暮らししている時に買ったレシピ本が最近片付けをしていたら出てきたのだが、見てみると簡単そうで美味しそうな物ばかりだった。去年の9月くらいに自炊を始めようとした時に、夫はその本を勧めてくれたのだが、その頃は料理した事が全くなかったので、その本のすごさが分からなかった。少し自炊をするようになってその本を見てみたらとても魅力的だった。しかし、レシピ本というのは、材料別やカテゴリー別になってない事が多い。私はそういう細かいところがすごく気になってしまうので、自分の好きなようにノートにまとめようと思ったのだ。

思えば学生の頃からノートを綺麗にまとめるのが好きだった。まとめた結果満足してそれを暗記するのを怠ったりはしていたが笑。今日は久しぶりに書いていたら、漢字が意外と書けなくなっていて驚いた。漢字は書かないと忘れていく物みたいだ(当たり前)。最近はブログやメールやLineなど、全てスマホやパソコンで文章を打っているので、あんまり書く事をしていなかった。そして、書くということはとても時間がかかるし、疲れるということが分かった。1時間集中して書いただけで相当疲れたので、学生時代の私は凄かったんだなと思った。学校に通っていると板書をノートに写すだけで相当な時間になる。それに加えて放課後も塾に行って板書を写したり、それのノートまとめをやっていた。今から考えると相当凄い。

学生時代は、学校に毎日通わなくてはならなくて辛い上に、実家で母親と暮らしていたので精神的に相当キツかった。朝が極端に弱いので朝起きて学校に行くのも辛いが、だからと言って休むと1日中責められた。しかもその上に一種の強迫観念で放課後は毎日勉強しなければならないと思っていて、勉強出来なかった日は自分を責め続けていた。学校にも通えなくて、勉強も思うように出来ない自分なんて死んだ方がいいのになと思っていたし、そのような事を母親にも言われていた。毎日人生って本当に辛いことしかないな…と思って生きていて、100%楽しい時間など 滅多に存在しなかった。

実家ではよく、「人生の何が楽しくて生きてるの?」と家族に聞いていた。母親は「今は辛くても楽しいと思える日がきっと来るよ。」と言っていたのだが、自分で娘に「あんたなんて生きる価値がない」とか言っておきながらよくそんなことが言えたなと今は思う笑。母親といる限り私は絶対に幸せにはなれなかったのに…

まあそんな感じだったが、今は母親と離れて好きな人と暮らして、好きなことが出来ているので本当に幸せだ。学生時代の自分に「本当に楽しくて幸せな生活が待ってるよ」と伝えてあげたい。

家に帰る途中で買い物をして家に帰った。今日も夜ご飯を作る事が出来た。料理をしている時間は結構長いのに食べるのは一瞬だなと思った。食べた後で片付けもしなくてはならないので結構大変だ。夫に最近頑張りすぎだよと言われた。こんな事で頑張りすぎと言ってくれる夫も大概優しいが、確かに最近私にしては結構頑張っている。1ヶ月の間で調子が良い時と悪い時のサイクルが大体あるのだが、そういえばこの頃は一番調子が良い時だ。そんな時は毎日料理をしたり、ブログを書く事ができる。調子が良い時に頑張っても頑張らなくても、そのうち体が勝手に動かなくなる時が来るので今は頑張っておこう笑。調子のサイクルがある事も分かっていて、調子が良いかどうか分かって、しかも何も出来なくなっても責めない夫でとてもありがたい。私は普通に生活する事が出来なくて、体力が異常なほど無かったり、寝ている時間が異常に長かったり、普通の人には理解しがたい事が多いのだが、夫のその辺に対する理解力はすごい。私の父親の方は私を結構理解してくれていたのだが、20年間かけて徐々に分かって来た感じだった。夫はすでに父親と同じくらい私を理解している。というか、結婚する前からある程度分かっていたみたいだ。プロポーズされた時に、「私は本当に何も出来ないんですけど良いんですか?」と聞いたのだが、「家にいてくれるだけで良いです」と返された。そして本当に1日ほとんど寝てて何もしなくても何も言わない。

20年間、普通に生きられない事への絶望に打ちひしがれて、生きるのが辛すぎて人生辞めたいと思っていた人間も、1年後には幸せな状況になっていることもあるのだなあと思った。夫と出会えて本当に良かった。

久しぶりの図書館と料理

11時起床。最近は、14時15時まで寝たり、1日中何もしないで寝ている事が少なくなった。ストレスがないからだと思う。非常に良い傾向だ。

夫が仕事に行くのを見届けてから図書館に行った。図書館と言えば、前に夫が中央図書館に行った時にめちゃめちゃショボかったと言って帰ってきたことがあった。そこでネットで調べてみたところ、市内ではないのだが比較的近くて大きそうな図書館があって、車で夫と行ってみたことがある。結構大きくて蔵書数もそれなりにあり、借りたい本もあったのだが、指定の市に住んでいる人しか借りられないと言われ、本を借りる事が出来なかった。なんだその謎システムという感じだった。県内ならどこでも良いのではないのかとガッカリした。県内でエリア分けがされているみたいなのだが、最近引っ越して来たのでそれが分からない。何を基準にエリア分けしているのだろうか。謎である。

まあそんなこともあって、市内なら借りられるだろうと思って市内で一番大きな図書館に行ってみた。でもそんなに大きくなかった笑。夫と行った図書館の半分くらいしかなかった。まあそんなこと言っててもしょうがないので、借りたい本を探すことにした。なんとなく面白そうだと思った本を借りようと思ったのだが、借りたい本が特になかった。このまま何も借りずに帰ろうかなと思ったのだが、寒い中自転車で30分くらいかけて行ったので何か借りようと思って考えた。好きな著者とかいなかったかなあと考えていて、そういえばカズオ・イシグロの『Never Let Me Go』(私を離さないで)を読んで猛烈に感動したことを思い出した。私の通っていた高校は国際科の高校で、英語の原書を読んで、宿題で英語の質問に英語で回答して、その答え合わせと解説を英語でするという授業があった。その授業の高校2年の時に使う原書の中に『Never Let Me Go』があった。なので、読んだはずだったのだが、その時は内容をあんまり覚えていなかった。授業とか関係なくまた読みたいなあと漠然と思っていたところに、一昨年カズオ・イシグロノーベル文学賞を受賞したニュースを見た。それでネバレミの人じゃん!(私の高校ではみんな書名を略してネバレミと呼んでいた)となって、そのニュースが流れている最中に図書館で予約した。すぐに予約したおかげで3番目に予約する事ができた。というのも、東京は人口が多いので、有名になった本はすぐに予約でいっぱいになってしまうのだ。『Never Let Me Go』も1日経ってから予約数を見てみたら300件を超えていた。私の母は図書館で働いていたのだが、芥川賞を受賞した又吉直樹の『火花』は、1つの区だけの予約数で一時期1000件を超えたらしい。ちなみに今でも予約数ランキングに常時ランクインしているのですごい。

『Never Let Me Go』の何に感動したかというと、繊細な心理描写だ。心理描写がとても細かく描かれていて、しかもそれがどれも自分もこんな感じの時あるなあという感じの描写なのだ。人間の心の動きというのを実に上手く文章化していると思う。それだけでなく、ストーリー自体もすごく面白い。特に最後の方は、「どうなるんだろう」と感じさせる展開で、読み終わった後は人間の感情の闇やどうしようもなさを深く感じさせる内容だ。

そんなわけで、カズオ・イシグロの本が読みたいなあと思って検索したら、『充たされざる者』という本が上下巻揃って置いてあったので、それを借りて帰ることにした。ブッカー賞を受賞した『日の名残り』も読みたかったのだが、貸出中で予約も3件入っていた。さすがノーベル文学賞受賞作家、人気は今も健在である。これから予約することにしよう。

そのあとはお昼ご飯を食べて、夕飯の買い出しをした。明日は雪が降るみたいなので、明日買い物しなくても良いように、明日の夕飯の材料も買った。あちこちのスーパーに行ったので、買い物だけで1時間以上かかってしまって、帰ったらすごく疲れていた。疲れたので少し休んでいると、夫が帰って来たので夕飯を作った。久しぶりにちゃんとした夕飯を作ったなあという感じだ笑。これから作る回数を増やしていきたい。