安藤まなのてきとー日記

22歳 発達障害の母の日記です

毒親気質な母親のもとで育った

昨日は実家に泊まって、今日は朝からADHDの診断の方で通っている病院に行った。

日常生活の事などを先生に話した。先生もADHDなので(医学部を卒業されて医者として開業なさっているので私とは比べ物にならないが)、私が困っていることにとても共感してくださって、それが怠けているわけではないことを両親に説明してくださった。本当に良い先生に巡り会えて良かったなあと思う。両親の話で印象に残ったのは、私の性格が穏やかになったということだ。実家にいる頃は何となくピリピリしていて、怖い雰囲気だったらしい。それが最近はめっきり穏やかになり、優しい雰囲気になったということだ。やはり環境は人を変えるんだなあと思った。私の母親はいつも私の事を否定していたが、夫は些細な事でも褒めてくれる。私はネガティブなので「そんな事ないよ」と言っているのだが、内心はとても嬉しい。しかし、私はあんまり夫を褒めていない事に気付いたので、これからは積極的に褒めて行こうと思う。

その後は母親と少し買い物をして、お昼ご飯を食べて実家に帰った。母親は私と仲良くしたがっているので、ずっと一緒に居れば機嫌が良い事が分かった。ただ、私はあんまり母親の話には興味が無いし、畳み掛けるように話すのであまり聞いていて心地良くはない。でも母親は、普段あんまり話を聞いてくれる人が居ないようなので、私と話したいみたいだ(ほとんど一方的に母親が喋っているだけなのだが…)。

実家に帰って少し休もうと思ったのだが、母親が夜ご飯の支度を始めたので、見学していた。もうかなり疲れていたので休みたかったのだが、純粋に最近は料理に興味を持ち始めたので、頑張ってどうやって作っているのか見たり聞いたりメモしたりした。最近は私も料理する事が増えてきたので、母親の料理を見ているのは楽しかった。自分の中の疑問が色々解決された。母親は私が熱心に見学しているのでとても上機嫌だった。

ここまではまあまあ仲の良い親子というところだろう。しかし、これは私が母親の思う通りに行動しているので上機嫌なだけであり、少しでも希望にそぐわない行動をすれば、母親はたちまち不機嫌になるのだ。

2週間ほど前に実家に帰った時は、母親があまりにもうるさかったので、実家におらずに自分の好きなところに出かけたり、東京で夫に会ったりしていたので、帰ってから激詰めされて泣いてしまった。激詰めというのはどういうことかと言うと、要するに「あんたはここが間違ってる!ここがダメだ!どうせ家事とか何もやってないんでしょ!私の言う通りにやりなさい!」みたいな感じだ。とにかく私をdisった後に、こうしなければならないと説教する。「私をdisってばかりいる」と指摘すると、「disるってねえ、あんたと私は友達じゃ無いのよ!対等じゃ無いからdisってるわけじゃ無い!これは教育なんだ!ダメなところを教育しているんだ!」と始まる。ここまで来ると、完全に心が折れて、反抗する気もなくなる。要するに、母親は実家に帰ってきたなら、自分と話したり、料理を見学して学んで欲しかったのだ。しかし、私がそれをしなかったので激詰めに走ったというわけだ。今回はこれらを全部やっていたのでずっと上機嫌のまま訪問が終了したわけである。

私はずっと母親の機嫌を伺って生きてきた。去年、なぜ私は20歳にもなるのに母親の言う事に全て従って生きているのだろう。他の人はもっと自由にやっているのに。と、突然自我が芽生えてきて、自分の感情に非常に戸惑い、色々な行動を起こしたりした。なぜ、20年間もずっと母親が思うように生きてきたのか、本当に謎に思った。今日でその答えが分かった気がした。母親の言う通りに生きていれば、母親が常に上機嫌だからだった。母親が思う通りに行動しなければ、母親は不機嫌になる。不機嫌というのは単に不機嫌なだけではなく、ヒステリーを起こしたり、私をdisって来たりするということだ。一緒に暮らしているのに、母親がそんな状況だとかなり辛い。それを避けるために私は母親の思う通りに生きていたのだ。

母親の機嫌は私たち子供の生き方だけに止まらず、1日の行動にまで左右される。例えば、母親がパートから帰ってきて、夜ご飯を作っている時に買い忘れたものがあるとする。自分はパートに行って疲れているので、誰か他の人に頼みたい。しかし、子供達は学校や遊びに行っていて1人もおらず、買い物に行かせる人がいないとする。この状況では仕方なく母親は自分で買い物に行き、料理を完成させるのだが、私たち子供が帰って来る時の機嫌は不機嫌ということになる。不機嫌で済むならまだ良いのだが、時には「私ばっかり忙しくてまるでシンデレラの下働きのように家族にこき使われている。私ってなんてかわいそうなのかしら」と始まったり、ずっと文句を言い続けたりする。

しかも、基本的には夜ご飯の時間までには実家に帰っていなければならないという謎ルールがあり、私は母親に許された用事を除いては20歳になるまで毎日夜19時半までには実家に帰るようにしていた。まあそこまでしても料理や配膳の手伝いをしなかったという理由で不機嫌な時もあるのだが…

ちなみに私には兄と弟がいるのだが、私ほど母親の言う事に従って生きていない。というか、2人とも好き勝手やっている。なぜそれが私に出来なくて兄弟には出来たのかという理由は主に2つあると私は思う。まず、母親が不機嫌でも、すぐに部屋に篭ったりして、母親の言うことをシャットアウトする事ができ、ヒステリーにも全く対応しようともしなかった事、それと、実家以外にも自分の居場所を作る事が出来たことだ。実際にこの処世術はとても正しい。私も出来ればそうやって好き勝手生きたかった。ただ、元々の性格や嫌がらせを受けた事などで学校に居場所を作れなかった私にとっては、母親だけが自分の中の絶対の評価軸だった。実際にはその評価軸は大きく歪んでいたのだが、私にとってはそれが全てだったのだ。誰からも評価されない私にとっては母親に評価される事だけが全てだった。それ故に母親の言うことだけを守り20年間も生きてきてしまったのだった。

また、ヒステリーに対する反応というのも難しいところだ。兄弟は、どこかの時点でヒステリーというものは、まともに対応したってどうなるものでも無いことを察したのだと思う。そして、そこからは母親のヒステリーに全く反応しなくなったのだと思う。実際にこれの反応は正しいと私は思っている。ヒステリーというのは、なだめたり、解決策を講じたりしても、一向に収まるものでは無い。治療という観点以外では、放っておくのが1番良い気がする。私はそれに気づくのに実に20年もの月日を費やしてしまったのだ。我ながら、本当に無駄な時間だったなあと思うのだが、分からなかったのだから仕方がない。兄弟には、放っておいた方が良いと言われてもいたのだが、私は実際にその実感を得るまでに実に長い年月を費やしてしまった。

母親がおかしいのではないかと気づいたのは何がきっかけだったのだろうか。やはり、ADHDの投薬治療で、無気力が少しだけ改善され、色々なところに顔を出し、色々な人の意見を聞いた事だと思う。私にも数少ない友達はいたのだが、友達は毒親などというワードも知らないわけで、母親の事を話しても「ちょっと厳しいだけでしょ」とか「親ってそんなもんじゃない?」と言われて終わっていた。それが、ADHDの方や、複雑な家庭環境で育った方達の意見で、典型的な毒親気質だと気づく事が出来たのだと思う。

そういう意味で、私がADHDではないかと指摘し、今通院している病院に紹介してくださった、大学のカウンセリングセンターのカウンセラーさんや、診察してくださっている先生、そして出会えた方達に本当に感謝している。(大学に通えなくなってカウンセリングセンターに相談しに行っていた話は、また別の機会に書こうと思う)そして、やっぱり1番はそんな絶望的な状況を救ってくれた夫に感謝している。

今日は本当に色々な学びがあった1日だった。