安藤まなのてきとー日記

22歳 発達障害の母の日記です

人生の振り返り その1

2019年の目標は「落ち着く」だったが、最近は本当に落ち着いていて生活リズムも安定して来ていい感じだ。暇な時間が増えたので、またブログでも書き始めようかなと思う。

今までも過去の人生に関する色々な記事を書いたのだが、全部中途半端になっているので(さすがADHD笑)、まとめて今までの人生を一挙に振り返ろうと思う。(本当に続くのかな…)

出生と乳児期

夏の暑い時期の一番暑い時間に元気に誕生した。女の子だったので父と父方の両親は非常に喜んだらしい。これからこの子を育てるのに多大な苦労がかかることも知らずに… 生まれたては非常にブスだった。両親も本人もかわいそうなくらいブス。でも両親はかわいかったみたいなので親ってすごいな。

乳児期の赤ちゃんは3時間に1回起きて、母乳を飲むみたいなのだが、私は9時間ぶっ続けで寝ていたらしい。昔から寝るの大好きだな笑。あまりにも静かだから親は「この子、死んでいるんじゃないか?」と心配したみたいだ。あと親が心配したのは「太り過ぎ」。お腹がまん丸で転がした方が早いみたいな感じだったらしい。病院の先生にも太り過ぎじゃないかと相談したみたいだ笑。まあそんな感じで特に大きな問題もなくすくすと育った。

1歳ぐらいになると、公園デビューやら児童館やらで他の子供と関わる機会が訪れるわけなのだが、私は他の子供に全く興味がなかった。一緒に遊ぶとかする意味がわからなくてずっと1人で遊んでいた。クリスマスパーティーなどに参加しても、他の子供が円になってみんなで遊んでいる中、自分の興味があるおもちゃで1人で遊んでいた。昔からADHD全開。なんで1人で遊んでいたかというと、その方が楽しいからだ。他の子供と遊ぶとなると色々なルールやら順番などが発生するわけで、そういうのが全部めんどくさかった。そこまでして他の子供と遊ぶ意味が理解できなかった。1人だとおもちゃ独り占めできるし、めんどうなことが一切なくてとても楽しかった。

幼稚園時代

幼稚園に入園する時がやって来た。そういう場所に行くと、「ちゃんとしなくては」とか思ってやたら緊張するタイプだ。入園の時も非常に緊張して不安そうな面持ちで参加した。私はなんかよく分からないけど、家にいる時はわがまま放題なのに、外に行くとしっかりしなくてはいけない、ミスをしてはいけないという強迫観念に囚われてしまう。なので先生の言うことはしっかり聞くし、指示を聞くと完璧に1番早く終わらせようとする。先生の評価はとても高いタイプだ。

要するに自分に厳しいわけなのだが、厄介なのが他人にも厳しいところだ。いい子だな、仲良くしたいな、と思う子がいたとしても、その子のダメなところを1つでも発見してしまうと途端に嫌いになってしまう。この時から0か100思考。他人を許容することが極端に出来なかったので、幼稚園で仲の良い友達は1人しか出来なかった。今から思うとその子もかなりADHDみがある子だった。その子といると基本的には楽しかったが、嫌なところもあった。ただ、年中さん以上になると友達が1人もいないとおかしいと先生や親に思われるので、よく一緒にいた。その子は友達だったし、一緒に遊ぶこともあったけど、幼稚園では基本的にはいつも1人で遊んでいた。この頃からあまり他人に興味がないし、深く関わったり、関係を築くのがめんどくさいと思ってのだなと思う。なんか友達が出来なかった隠キャの言い訳みたいに聞こえるのだが、言い訳をしたいわけではない。私は確かに自他共に認める隠キャだ。ただ、あまり集団というものを意識していないこの時期は、友達を作らなきゃと思うこともなかったので、本当に他人に興味が持てなかったんだと思う。そして純粋に他人と関係性を築くことが極端にめんどくさかった。無理してそんなことするぐらいなら、ずっと1人で好きなように遊んでいる方がよっぽど気が楽だったし楽しかった。

そう考えると、1歳ころから他人と関わって関係性を築いたり、ルールを理解してまもって遊ぶことができる大半の人間、社会性が半端ないなと思う。大体において、他人と関わるのはめんどくさい。1人でいた方が好きなことができるし、楽しいはずなのだ。なのに、無意識の内から、わざわざ友達を作って一緒に遊んだりするのだ。集団意識がないこの時期から。人間って本当に高度な社会性を持った生物なんだなあ…しみじみ…

話が逸れてしまった。友達ができなかった理由についてだが、よく考えるとその思考の他に、自分の思っていることや、言いたいことを上手く言語化できないことがあった。自分の感情の言語化は今でも苦手だ。一般的に、ADHDの人は、頭の中で考えていること、感じたことを言語化するのが苦手だと言われている。この頃からその傾向は顕著にあった。感じることはたくさんあるのだが、それを言語化することがほとんど出来ない。何か悲しい事、嫌なことがあって泣いてしまった時に、先生に「何があったの?」と言われても何も説明できずに「泣いているだけじゃ何も分からないよ」と言われることが多々あった。自分の感情を表現することが出来ないので、周りの子供達からも「あの子は何を考えているか分からない」と思われてしまっていたのだと思う。

というか、そもそも、他人と話すことが苦手だった。私は幼稚園でほとんど喋らない子だった。なぜそうだったのかは今になってはもう分からない。もしかしたら他人と喋って自分の考えていることや感じていることを共有するのが極端に恥ずかしかったのかもしれない。

まあそんな感じで友達が全然いなかったわけだが、先生からの評価はすこぶる高く、色々な人から「しっかりしている」と言われていた。先生が指示することは、なんでも的確に早くこなした。先生の教えが絶対で、それを守ることが1番大事なことだと思っていた。だから、気がそれて違うことをやり始めたり、モタモタしていたり、先生の言うことを守れない子が心底嫌いだった。「なんでそんなことも出来ないんだよ」「いいから早くやれよ」とか思っていた。ああ… 書いていて完全に思考が隠キャで嫌になってきた… 隠キャ気質って幼稚園の時からあるのだな… 悲しみ…

しかし、その頃の私はそんなこと全く気にしていなかったので、学年で1番しっかりしている子2人の女の子が選出される、年長さんの時のお遊戯会の合奏の指揮に選ばれた時は非常に嬉しかった。先生や親から評価されることが全てだった私にとってはこれ以上ないほどの嬉しさだった。

まあそんな感じで先生や親からは評価されたけど、友達が1人しかいない社会性皆無の幼稚園時代だった。