安藤まなのてきとー日記

22歳 発達障害の母の日記です

人生の振り返り その2

小学校低学年時代のことはこちらのブログにも書いたのだが、今回は違う観点から書いていこうと思う。

小学校に入って困ったことは、人前で話せないことと他人と話すことが出来ないことだった。人前で話そうとすると極度に緊張して何も喋れなくなってしまう。幼稚園の頃にも人前で話すことはあったのだが、全部セリフが決まっていたり、何人かで喋るので特に問題がなかった。また、人前で何か行動するのは大丈夫だった。

小学校では日直制度があって、日直の人は朝の会、帰りの会の司会をやるのだが、朝の会に「1分間スピーチ」というものがあった。決められたテーマについて日直が1分間スピーチをし、聞いた人が質問や感想を言うというものだ。大半の子は、話の内容は特に何も考えてず、その日に適当に話すと言う感じだった。話していると1分経たずに終わってしまい、「あれ、やべえ笑」みたいになる結構ゆるい感じだった。しかし、私はそれが出来なかった。最初の頃は多分何も話せなくてその場に立ち尽くしていたのだと思う。見かねた先生が、私は特別に前もって話す内容を考えておいて、それを紙に書いて持ってきて、それを読み上げていいということにしてくれた。私は3日前くらいから話す内容を必死に考えて紙にまとめてそれを読み上げることにした。自分の中で完璧に推敲して仕上げた内容だと、不思議とそれを読み上げることは出来た。わずか18人しかいないクラスだったのだが、もう1人人前で喋れない子がいて、その子も同じルールになった。ただ、その子は紙に書いてきても上手く喋ることができず、泣きながら15分くらいかけて読み上げていた。今から考えるとかなり残酷だ…

1,2年生の時の休み時間は、女の子何人かで校庭で遊んでいた。私はあんまり喋らなかったけれど、不思議と一緒に遊んでくれる子はいた。一輪車がすごく流行っていたので、何人かで一輪車をして遊んだ記憶がある。私は乗れるようになるまですごく時間がかかったのに、友達は根気強く乗り方を教えてくれた。本当に良い子達だったなあ…ただ、放課後は友達と遊ぶことはなく、真っ直ぐ家に帰って弟と遊んでいた。弟と遊ぶのが大好きだったので、結構楽しかった。

3年生になると、特に仲が良い友達が出来て、その子の家が実家から近かったので、放課後頻繁に遊びに行っていた。

クラスは、多少騒いだりうるさかったり先生の言うことを聞かなかった生徒はいたが、担任の先生はちゃんと怒る先生だったし、よく生徒達を手懐けていたので、別段大きな問題は起こらなかった。問題児N君は私につきまとってきたり、授業中にうるさくしたりするのでこの頃から大嫌いだったけど。

1年生から3年生まで担任の先生が同じだったのだけど、その先生のお陰でだいぶ人前で話せるようになったので、今でも本当に感謝している。優しいけど、きちんと叱るし、生徒1人1人に向き合うとても良い先生で大好きだった。その先生と、優しい友達に囲まれて楽しい低学年時代だった。私の学校生活の中で1番楽しかった時代だった。

毒親気質な母親のもとで育った

昨日は実家に泊まって、今日は朝からADHDの診断の方で通っている病院に行った。

日常生活の事などを先生に話した。先生もADHDなので(医学部を卒業されて医者として開業なさっているので私とは比べ物にならないが)、私が困っていることにとても共感してくださって、それが怠けているわけではないことを両親に説明してくださった。本当に良い先生に巡り会えて良かったなあと思う。両親の話で印象に残ったのは、私の性格が穏やかになったということだ。実家にいる頃は何となくピリピリしていて、怖い雰囲気だったらしい。それが最近はめっきり穏やかになり、優しい雰囲気になったということだ。やはり環境は人を変えるんだなあと思った。私の母親はいつも私の事を否定していたが、夫は些細な事でも褒めてくれる。私はネガティブなので「そんな事ないよ」と言っているのだが、内心はとても嬉しい。しかし、私はあんまり夫を褒めていない事に気付いたので、これからは積極的に褒めて行こうと思う。

その後は母親と少し買い物をして、お昼ご飯を食べて実家に帰った。母親は私と仲良くしたがっているので、ずっと一緒に居れば機嫌が良い事が分かった。ただ、私はあんまり母親の話には興味が無いし、畳み掛けるように話すのであまり聞いていて心地良くはない。でも母親は、普段あんまり話を聞いてくれる人が居ないようなので、私と話したいみたいだ(ほとんど一方的に母親が喋っているだけなのだが…)。

実家に帰って少し休もうと思ったのだが、母親が夜ご飯の支度を始めたので、見学していた。もうかなり疲れていたので休みたかったのだが、純粋に最近は料理に興味を持ち始めたので、頑張ってどうやって作っているのか見たり聞いたりメモしたりした。最近は私も料理する事が増えてきたので、母親の料理を見ているのは楽しかった。自分の中の疑問が色々解決された。母親は私が熱心に見学しているのでとても上機嫌だった。

ここまではまあまあ仲の良い親子というところだろう。しかし、これは私が母親の思う通りに行動しているので上機嫌なだけであり、少しでも希望にそぐわない行動をすれば、母親はたちまち不機嫌になるのだ。

2週間ほど前に実家に帰った時は、母親があまりにもうるさかったので、実家におらずに自分の好きなところに出かけたり、東京で夫に会ったりしていたので、帰ってから激詰めされて泣いてしまった。激詰めというのはどういうことかと言うと、要するに「あんたはここが間違ってる!ここがダメだ!どうせ家事とか何もやってないんでしょ!私の言う通りにやりなさい!」みたいな感じだ。とにかく私をdisった後に、こうしなければならないと説教する。「私をdisってばかりいる」と指摘すると、「disるってねえ、あんたと私は友達じゃ無いのよ!対等じゃ無いからdisってるわけじゃ無い!これは教育なんだ!ダメなところを教育しているんだ!」と始まる。ここまで来ると、完全に心が折れて、反抗する気もなくなる。要するに、母親は実家に帰ってきたなら、自分と話したり、料理を見学して学んで欲しかったのだ。しかし、私がそれをしなかったので激詰めに走ったというわけだ。今回はこれらを全部やっていたのでずっと上機嫌のまま訪問が終了したわけである。

私はずっと母親の機嫌を伺って生きてきた。去年、なぜ私は20歳にもなるのに母親の言う事に全て従って生きているのだろう。他の人はもっと自由にやっているのに。と、突然自我が芽生えてきて、自分の感情に非常に戸惑い、色々な行動を起こしたりした。なぜ、20年間もずっと母親が思うように生きてきたのか、本当に謎に思った。今日でその答えが分かった気がした。母親の言う通りに生きていれば、母親が常に上機嫌だからだった。母親が思う通りに行動しなければ、母親は不機嫌になる。不機嫌というのは単に不機嫌なだけではなく、ヒステリーを起こしたり、私をdisって来たりするということだ。一緒に暮らしているのに、母親がそんな状況だとかなり辛い。それを避けるために私は母親の思う通りに生きていたのだ。

母親の機嫌は私たち子供の生き方だけに止まらず、1日の行動にまで左右される。例えば、母親がパートから帰ってきて、夜ご飯を作っている時に買い忘れたものがあるとする。自分はパートに行って疲れているので、誰か他の人に頼みたい。しかし、子供達は学校や遊びに行っていて1人もおらず、買い物に行かせる人がいないとする。この状況では仕方なく母親は自分で買い物に行き、料理を完成させるのだが、私たち子供が帰って来る時の機嫌は不機嫌ということになる。不機嫌で済むならまだ良いのだが、時には「私ばっかり忙しくてまるでシンデレラの下働きのように家族にこき使われている。私ってなんてかわいそうなのかしら」と始まったり、ずっと文句を言い続けたりする。

しかも、基本的には夜ご飯の時間までには実家に帰っていなければならないという謎ルールがあり、私は母親に許された用事を除いては20歳になるまで毎日夜19時半までには実家に帰るようにしていた。まあそこまでしても料理や配膳の手伝いをしなかったという理由で不機嫌な時もあるのだが…

ちなみに私には兄と弟がいるのだが、私ほど母親の言う事に従って生きていない。というか、2人とも好き勝手やっている。なぜそれが私に出来なくて兄弟には出来たのかという理由は主に2つあると私は思う。まず、母親が不機嫌でも、すぐに部屋に篭ったりして、母親の言うことをシャットアウトする事ができ、ヒステリーにも全く対応しようともしなかった事、それと、実家以外にも自分の居場所を作る事が出来たことだ。実際にこの処世術はとても正しい。私も出来ればそうやって好き勝手生きたかった。ただ、元々の性格や嫌がらせを受けた事などで学校に居場所を作れなかった私にとっては、母親だけが自分の中の絶対の評価軸だった。実際にはその評価軸は大きく歪んでいたのだが、私にとってはそれが全てだったのだ。誰からも評価されない私にとっては母親に評価される事だけが全てだった。それ故に母親の言うことだけを守り20年間も生きてきてしまったのだった。

また、ヒステリーに対する反応というのも難しいところだ。兄弟は、どこかの時点でヒステリーというものは、まともに対応したってどうなるものでも無いことを察したのだと思う。そして、そこからは母親のヒステリーに全く反応しなくなったのだと思う。実際にこれの反応は正しいと私は思っている。ヒステリーというのは、なだめたり、解決策を講じたりしても、一向に収まるものでは無い。治療という観点以外では、放っておくのが1番良い気がする。私はそれに気づくのに実に20年もの月日を費やしてしまったのだ。我ながら、本当に無駄な時間だったなあと思うのだが、分からなかったのだから仕方がない。兄弟には、放っておいた方が良いと言われてもいたのだが、私は実際にその実感を得るまでに実に長い年月を費やしてしまった。

母親がおかしいのではないかと気づいたのは何がきっかけだったのだろうか。やはり、ADHDの投薬治療で、無気力が少しだけ改善され、色々なところに顔を出し、色々な人の意見を聞いた事だと思う。私にも数少ない友達はいたのだが、友達は毒親などというワードも知らないわけで、母親の事を話しても「ちょっと厳しいだけでしょ」とか「親ってそんなもんじゃない?」と言われて終わっていた。それが、ADHDの方や、複雑な家庭環境で育った方達の意見で、典型的な毒親気質だと気づく事が出来たのだと思う。

そういう意味で、私がADHDではないかと指摘し、今通院している病院に紹介してくださった、大学のカウンセリングセンターのカウンセラーさんや、診察してくださっている先生、そして出会えた方達に本当に感謝している。(大学に通えなくなってカウンセリングセンターに相談しに行っていた話は、また別の機会に書こうと思う)そして、やっぱり1番はそんな絶望的な状況を救ってくれた夫に感謝している。

今日は本当に色々な学びがあった1日だった。

母親のことなど

今日は東京に行った。私の両親と夫と私で月に1度、食事をして近況を報告する日だからだ。夫が東京に行く用事があったので、一緒に車で行った。着いて、まず、大学に行って名前や住所の変更手続きをした。戸籍抄本が必要だったりと様々な理由でまだ出来ていなかったからだ。今日出来て良かった。両親と会うまでに時間があったので、しょぼい喫茶店に行った。東京に行く時は必ず行くほど大好きなお店だ。最近は2週間に1回くらい行っている。しょぼい喫茶店に着くと、常連のお客さんが1人いらっしゃった。常連さんとえもいてんちょうさんと3人で本当に色々な話をした。高校の事や、家族の事、結婚の話などなど…

1番心に残った話は、母親のことだ。私の母親は猛烈な過干渉で、私の人生に一々口出ししてくるし、自分の思う人生を歩まないと気が済まない人だ。ずっと一緒に暮らしていたのに、私の気持ちなんて全く理解していないし、何かにつけ私のことを否定する。肯定された覚えはほとんどない。母親のひどいエピソードは、夫と話している時などに、ふと出て来たりするのだが、まだ冷静に振り返ったり、分析する事が出来ないという話をしていた。すると、常連のお客さんが、「まなさんは今、まだ問題の渦中だから見えていないだけで、2、3年後にそれが過去になって振り返ると冷静に見る事が出来るのではないか。」とおっしゃっていて、なるほどと思った。それと、「今はブログに色々なその時々の思いを書き残すと良いのではないか。」とおっしゃっていたので、ブログをまた書いてみることにした。自分の過去の事は結構書いたけど、母親の事はまだあまり書いてなかった気がする。(過去の記事を読み返したわけではないので正確には分からない笑)

最近、夫と話していて、母親がヤバイなと思ったエピソードは、母親が私を自分と同じ中学、高校、大学に入学させようとしていた事だ。当時は何も思わなかったけど、今考えてみると、これはかなりヤバい。母親は中高一貫校の女子校に高校から通っていた。そこは大学附属のような所で、特に問題がなければ、附属の大学に入学する事が出来る高校だった。高校の成績の良い子から学部学科を選ぶ事が出来る。その高校がまだ中高一貫校でその当時は残っていた。私は中学受験をしたのだけれど(自分の意思ではなく)、途中で精神を病んでしまい、まともに勉強が出来なくなってしまった。そこで、母親が自分の母校の中高一貫校に入学すれば、大学まで受験なしで行けて良いのではないかと言い出したのだ。その学校は母親が入っていた時のレベルは結構高かったのだが、少子化や女子校の人気の低迷でかなり偏差値が落ちていた。母親が居た頃は中々良い先生と同級生達に恵まれていたみたいだった。結局、母親のゴリ押しもあり、その中学校に入る事になってしまった。

しかし、その中学校は、私が入学した頃にはもうレベルが相当落ちていて、私立でみんな受験して来たにも関わらず、恐ろしくレベルが低い学校だった。先生方は熱心なのだが、生徒がとにかくひどい。私はそこでかなり嫌がらせを受けたし、こんなに性格が悪い人間が居るのかと思うほど性格がねじ曲がった何人もの女子と出会う事になった。まあ中学校は、大体嫌がらせとかあるし、みんな思春期真っ只中でドロドロしているとは思うのだが…

その中でも、成績の良い、気が合う数人の友達となんとかやり過ごしていたのだが、その子達もやはりその中学校が嫌で、高校受験をすると言い出した。中学3年になってから。私はその友達たちと特進クラスに一緒に行って、仲良くするつもりでいたのでかなり焦った。その子達が居なくなってしまったら、友達もいないし、楽しい事が何もない。そして私は中学3年生の夏、高校受験をする事に決めた。

精神を病んでしまって途中でまともな中学受験をする事が出来なくなった私も悪いのだが、そうなったのならもう諦めて公立の中学校に入れてくれた方がまだマシだったのではないかなあと最近は思う。まあ過去の事なのでしょうがない。

そんな感じで、母親はなんでも自分の思う通りに私の人生を決めたかったのだなあと思った。(本人は私の為を思ってやっているのだし、そう思う人も居るのかな…?)これからも、思い出したら母親のヤバいエピソードを書いていこうかなあと思う。あと日記的なことと、過去の振り返りと…(書くこと多いなあ)

そういえば、今日、両親と夫と私で食事した時も、「あなたはおかしいからね。」と3回くらい言われたなあ…

人生の振り返り その1

2019年の目標は「落ち着く」だったが、最近は本当に落ち着いていて生活リズムも安定して来ていい感じだ。暇な時間が増えたので、またブログでも書き始めようかなと思う。

今までも過去の人生に関する色々な記事を書いたのだが、全部中途半端になっているので(さすがADHD笑)、まとめて今までの人生を一挙に振り返ろうと思う。(本当に続くのかな…)

出生と乳児期

夏の暑い時期の一番暑い時間に元気に誕生した。女の子だったので父と父方の両親は非常に喜んだらしい。これからこの子を育てるのに多大な苦労がかかることも知らずに… 生まれたては非常にブスだった。両親も本人もかわいそうなくらいブス。でも両親はかわいかったみたいなので親ってすごいな。

乳児期の赤ちゃんは3時間に1回起きて、母乳を飲むみたいなのだが、私は9時間ぶっ続けで寝ていたらしい。昔から寝るの大好きだな笑。あまりにも静かだから親は「この子、死んでいるんじゃないか?」と心配したみたいだ。あと親が心配したのは「太り過ぎ」。お腹がまん丸で転がした方が早いみたいな感じだったらしい。病院の先生にも太り過ぎじゃないかと相談したみたいだ笑。まあそんな感じで特に大きな問題もなくすくすと育った。

1歳ぐらいになると、公園デビューやら児童館やらで他の子供と関わる機会が訪れるわけなのだが、私は他の子供に全く興味がなかった。一緒に遊ぶとかする意味がわからなくてずっと1人で遊んでいた。クリスマスパーティーなどに参加しても、他の子供が円になってみんなで遊んでいる中、自分の興味があるおもちゃで1人で遊んでいた。昔からADHD全開。なんで1人で遊んでいたかというと、その方が楽しいからだ。他の子供と遊ぶとなると色々なルールやら順番などが発生するわけで、そういうのが全部めんどくさかった。そこまでして他の子供と遊ぶ意味が理解できなかった。1人だとおもちゃ独り占めできるし、めんどうなことが一切なくてとても楽しかった。

幼稚園時代

幼稚園に入園する時がやって来た。そういう場所に行くと、「ちゃんとしなくては」とか思ってやたら緊張するタイプだ。入園の時も非常に緊張して不安そうな面持ちで参加した。私はなんかよく分からないけど、家にいる時はわがまま放題なのに、外に行くとしっかりしなくてはいけない、ミスをしてはいけないという強迫観念に囚われてしまう。なので先生の言うことはしっかり聞くし、指示を聞くと完璧に1番早く終わらせようとする。先生の評価はとても高いタイプだ。

要するに自分に厳しいわけなのだが、厄介なのが他人にも厳しいところだ。いい子だな、仲良くしたいな、と思う子がいたとしても、その子のダメなところを1つでも発見してしまうと途端に嫌いになってしまう。この時から0か100思考。他人を許容することが極端に出来なかったので、幼稚園で仲の良い友達は1人しか出来なかった。今から思うとその子もかなりADHDみがある子だった。その子といると基本的には楽しかったが、嫌なところもあった。ただ、年中さん以上になると友達が1人もいないとおかしいと先生や親に思われるので、よく一緒にいた。その子は友達だったし、一緒に遊ぶこともあったけど、幼稚園では基本的にはいつも1人で遊んでいた。この頃からあまり他人に興味がないし、深く関わったり、関係を築くのがめんどくさいと思ってのだなと思う。なんか友達が出来なかった隠キャの言い訳みたいに聞こえるのだが、言い訳をしたいわけではない。私は確かに自他共に認める隠キャだ。ただ、あまり集団というものを意識していないこの時期は、友達を作らなきゃと思うこともなかったので、本当に他人に興味が持てなかったんだと思う。そして純粋に他人と関係性を築くことが極端にめんどくさかった。無理してそんなことするぐらいなら、ずっと1人で好きなように遊んでいる方がよっぽど気が楽だったし楽しかった。

そう考えると、1歳ころから他人と関わって関係性を築いたり、ルールを理解してまもって遊ぶことができる大半の人間、社会性が半端ないなと思う。大体において、他人と関わるのはめんどくさい。1人でいた方が好きなことができるし、楽しいはずなのだ。なのに、無意識の内から、わざわざ友達を作って一緒に遊んだりするのだ。集団意識がないこの時期から。人間って本当に高度な社会性を持った生物なんだなあ…しみじみ…

話が逸れてしまった。友達ができなかった理由についてだが、よく考えるとその思考の他に、自分の思っていることや、言いたいことを上手く言語化できないことがあった。自分の感情の言語化は今でも苦手だ。一般的に、ADHDの人は、頭の中で考えていること、感じたことを言語化するのが苦手だと言われている。この頃からその傾向は顕著にあった。感じることはたくさんあるのだが、それを言語化することがほとんど出来ない。何か悲しい事、嫌なことがあって泣いてしまった時に、先生に「何があったの?」と言われても何も説明できずに「泣いているだけじゃ何も分からないよ」と言われることが多々あった。自分の感情を表現することが出来ないので、周りの子供達からも「あの子は何を考えているか分からない」と思われてしまっていたのだと思う。

というか、そもそも、他人と話すことが苦手だった。私は幼稚園でほとんど喋らない子だった。なぜそうだったのかは今になってはもう分からない。もしかしたら他人と喋って自分の考えていることや感じていることを共有するのが極端に恥ずかしかったのかもしれない。

まあそんな感じで友達が全然いなかったわけだが、先生からの評価はすこぶる高く、色々な人から「しっかりしている」と言われていた。先生が指示することは、なんでも的確に早くこなした。先生の教えが絶対で、それを守ることが1番大事なことだと思っていた。だから、気がそれて違うことをやり始めたり、モタモタしていたり、先生の言うことを守れない子が心底嫌いだった。「なんでそんなことも出来ないんだよ」「いいから早くやれよ」とか思っていた。ああ… 書いていて完全に思考が隠キャで嫌になってきた… 隠キャ気質って幼稚園の時からあるのだな… 悲しみ…

しかし、その頃の私はそんなこと全く気にしていなかったので、学年で1番しっかりしている子2人の女の子が選出される、年長さんの時のお遊戯会の合奏の指揮に選ばれた時は非常に嬉しかった。先生や親から評価されることが全てだった私にとってはこれ以上ないほどの嬉しさだった。

まあそんな感じで先生や親からは評価されたけど、友達が1人しかいない社会性皆無の幼稚園時代だった。

 

2018年を具体的に振り返ってみた

2018年

1月

  • 成人式
  • ADHDの症状が大幅に改善され、色々な事にやる気が湧く
  • お金がなかったので謎に引っ越しのバイトをする

 

2月

  • 突然、幼稚園教諭を志す
  • 幼稚園のボランティアに行く(2日で辞める)
  • 幼稚園教諭育成コースのある通信制教育への転入作業に入る
  • 実家の近くのオープニングのパン屋のバイトを始める

 

3月

  • 転入許可待ち
  • 暇なので週6日でバイト
  • エデンに初めて赴く

 

4月

  • 晴れて通信制大学に入学
  • 勉強頑張ろう期間
  • まだ週5日くらいでバイト

 

5月

  • 勉強に飽き始める
  • mojaで行われた出張しょぼい喫茶店にてえもてんさんファンとなる
  • バイトも辞めて暇になる
  • エデンでしんさんと出会う
  • その次の日にしょぼい喫茶店で、またしんさんに会い、シェアハウスを勧められる
  • その次の日にシェアハウス内見
  • その次の次の日にシェアハウスに家出

 

6月

  • しんさんにプロポーズ2回くらいされたけど、プロポーズだと気付かず放置
  • 辛いので実家に戻る(もう会えなくなると思いしんさん真っ青)

 

7月

  • しんさんの3回目のプロポーズで事態を把握し承諾
  • 結婚
  • 結婚後、色々な問題が発生

 

8月

  • 人生最大の修羅場
  • 人生最大の修羅場を潜り抜けたその足で大阪、京都、名古屋を巡る
  • 引っ越して同居開始
  • しんさんの就職先が決まる

 

9月

  • 深夜の引っ越し
  • 家電を買ったり頂いたりして揃える
  • やっと生活らしき生活が始まる

 

10月

  • 料理を始める
  • 生活が落ち着いてきて暇になったのでバイトを探すも中々上手く行かず

 

11月

  • やっとバイトが決まり、バイトを始める

 

12月

  • 楽しいクリスマス
  • バイトと家事を頑張る

 

まとめ

激動の1年だった

でも幸せなのでOKです

 

2019年の目標

落ち着く

 

私の小学校低学年時代

あれから小学校時代のことを色々思い出したのだが、結構カオスな状況だった気がしてきたので書いていこうと思う

まず、私の通っていた公立の小学校は、人数がとても少なく、1学年1クラス20人前後の学校だった。なぜこんなに人数が少ないのかと少なくても学校が存続しているかというのには同じ理由があった。私の小学校には障害者学級があったのだ。近隣の小学校で障害者学級のある小学校は1つしかなかったので、たとえ人数が少なくても閉校するわけにはいかないという状況だった。また、人数が少ない理由も障害者学級があるためだった。縦割り班や学級活動などで障害者の子達と一緒に活動することも少なくなかったため、それを嫌がった親御さん達が、わざわざ違う小学校に入学させていたのだ。まあそんなわけで一緒の学年の子は6年間一緒に育ち、友達というより兄弟に近い関係性になっていた。

人数が少なくてもそこにいわゆる「問題児」は存在する。私のクラスにはかなりすごい「問題児」が1人存在していた。名前をN君とする。N君は今から思うと発達障害の多動性が顕著に現れている子だった。とにかく授業中じっと座っていることが出来ない。授業中しょっちゅう教室内を歩き回り、他の子にちょっかいをかけたりしていた。また、他害の傾向もある子で、気に入らないことがあるとすぐに機嫌が悪くなり、他の子や先生にまで暴力を振るう。それ以外にも、相手の嫌がることが大好きだった。彼が1年生の時には彼の中でスカートめくりが流行っており、女の子のスカートをよくめくっていた。私も1度被害にあったのだが、本当に嫌な気持ちがしたらしく、母親に「もう学校にはスカートを履いていかない」と言ったらしい。母親は最初、一時的な感情だろうと思い、朝、スカートを用意したこともあったそうだが、絶対に履かなかったらしい。私は以降、卒業するまで1回もスカートを履いて登校することはなく過ごした。そしてなぜか彼は私と私の親友Mちゃんを異様に気に入っており、教室の外で会うとつきまとわれたり抱きつかれたりした。1年生の頃に私が隣の席になった時には授業中に急に私の鼻の際に鉛筆の尖った方を刺してきた。かなり痛かった上に鉛筆が結構尖っていたため、鉛筆の先の方の鉛を鼻の際に埋め込まれた形となった。それに気づいた担任の先生は烈火のごとく彼を叱ったのだが、先生の声は彼の耳に届くわけもなく、彼の機嫌を悪くするだけで終わってしまった。1年生の時の担任の先生は子どもたちをかわいがり、一人一人と向き合ってくれる先生だったので、先生と相談し、先生は私を彼の隣の席には絶対にしないということを約束してくれた。この先生は3年生まで担任をしてくれたので、この約束は3年間に渡って続くこととなった。ちなみにこの時のけがの跡は今も残っており、鼻の際をよく見ると今でも黒い点が存在している。また、このNくんのせいで私は男性恐怖症のようなものに陥ってしまった。この後も中学校は女子校、高校は男子がとても少ない国際科の高校、大学は女子大に進んだ。バイト先も男性がほとんどいないバイト先を選んだ。これは中学校を選んだ時以外は特に意識的にしていたわけではなく、無意識的にそうしていた。なんとなく女性しかいない、もしくは少ない環境イコール安全という意識がいつも私の中にあった。小学校の頃に植えつけられた男性恐怖は無意識のうちに私を支配していたらしい。N君による他の子への嫌がらせ、ちょっかいは3年生になっても続いていたが、1年生〜3年生を担当してくれた女性教師が割と若く、可愛らしい先生でN君もデレデレだったことと、低学年の頃は暴力を振るったとしてもまだ力が弱かったこともあり、特段大きな問題は起きないまま過ぎて行った。今から思うと担任の女性教師がN君を上手く手なずけていたことが大きかったのだと思う。母親の言うことさえまともに聞かないN君が担任の先生の言うことだけは聞いていたのだから。

小学校高学年では更に状況は悪化するのだが、それははまた次回書こうと思う。

小学校でのゆとり教育の現状

なぜいきなりこんな記事を書こうと思ったかというと、今日、私の小学生時代の話を夫にした時に、ずっと心の片隅にあった小学校の教育に対する疑問が沸々と湧き上がってきたからだ。

最近、Twitterで話題になったいわゆる「さくらんぼ計算」問題だが、あのような問題は10年以上前の私の小学校でも頻繁に起こっていた。

js-mama-onayamikaiketsu.com

さくらんぼ計算」問題で例えると、私の小学校でもさくらんぼ計算式を書かずに答えだけ書いていたら、点数を減点されていたと思う。「思う」と書いたのは私は実際にそれをしなかったからだ。なぜしなかったのかというと、書かないと減点されることを理解していたからだ。「さくらんぼ計算」問題はまさに昨今の日本の初等教育を代表する分かりやすい事例だ。ゆとり教育下の小学校では、全てが「わからない子」向けに作られており、「わからない子」がわかる様になるために、様々な考え方を教えている。問題はそこではなく、その考え方をすべての子供に強制するところにある。「さくらんぼ計算」問題で例えると、「7+6」は「わかる子」ならばすぐに解答を導き出せるし、何回も問題を解く内に「7+6=13」であることを暗記してしまう。しかし、何回教えても「7+6」を解くことが出来ない子が存在する。そういう「わからない子」に向けて、解き方を分かりやすく説明するために「さくらんぼ計算」は存在するのだ。なので、そういう考え方を説明した上で「わかる子」は普通に問題を解いて解答すればいいし、「わからない子」は、「さくらんぼ計算」を用い、その過程を用紙に書くなりして解答を導き出せば良い。しかし、なぜか昨今の教育では全員「さくらんぼ計算」を使い、その過程をテスト用紙に書き残さなけらばならないとされてしまう場合が多いのだ。

私の場合、「7+6=13」であることは理解出来ていたのだが、授業での先生の発言を聞く限り、「さくらんぼ計算」で問題を解き、その過程をテスト用紙に書き残さなければ点数が減点されることは理解できており、絶対にそんなことで減点されたくないという強い気持ちがあったので、面倒でも計算式をテスト用紙に書くようにしていた。悲しいことに、私の小学校の算数の教師は「さくらんぼ計算」を教える時に、その方法で問題を解き、計算式を書き残さないとテストで減点することを何度も繰り返し生徒に力説していた。正直なぜそこまでするのか微塵も理解できないが、実際にそうだったのだから仕方がない。

さくらんぼ計算」問題のような教育に疑問を持つご家族のツイートを見る限り、お子さんは私の様にその方法で問題を解き、計算式を書き残しなさいということを教師に言われていたが、聞いていなかったという可能性もあるのかなと思う。もちろん、そうではないかもしれないし、それを言わずに勝手に減点する教師が居たらかなりひどいと思うが、頭がいい子というのは教師の話を聞いていないことが多いと感じる。私の小学校では、私が1回目の授業の最初の10分くらいで理解できることを5回の授業に渡って説明したりしていた。私は真面目な生徒で居たかったので真面目に授業を聞いていたが、頭がいい子はそんな授業は聞かなくなる可能性が高い。その間、暇になるので何をするかと言うと学習塾の予習復習だ。そんなことしても本末転倒だ!という意見が聞こえてきそうだが実際これがそうでもない。なぜなら、ゆとり教育下にある小学校で習っている内容より、中学受験のための大手学習塾で習う内容の方が遥かに進んでいるからだ。(ちなみにここで言う学習塾とは、個別教室の塾などは含んでおらず、あくまで中学受験で難関中学に合格することを目的としたスパルタ的な学習塾のことである)私の実際に通っていたのだが、本科授業が小学4年生から始まる塾で4年生で習った算数の内容で、兄の友達の6年生の算数の宿題を教えることが出来た。ちなみに私の兄は私より頭が良く、国立大学に現役合格したのだが、小学校は遊ぶために通っていると言っていた。学習塾で習う内容は魅力的で面白いが、小学校で習う内容は退屈でつまらないと言っていた。兄は学習意欲も高かったので、学習塾は熱が出ても休まなかったが、小学校は熱が出たら休んでいた。

これは、ゆとり教育の問題点である「浮きこぼれ」問題にも直結している。ゆとり教育はとにかく「わからない子」に合わせて作ってあるため、勉強ができる子は逆に周りから浮いてしまう。「浮きこぼれ」がどういう状態かと言うと、例えば10枚の算数のプリントがあったとする。この10枚は一つの単元の練習問題だ。これを解かせるために、まず、教師はその単元の内容を生徒に教える。教えを終わったところで、「ではプリントの練習問題をやってみましょう」となる。クラスの人数が20人だったとして、1番最初に10枚やり終えた時、1番遅い子はまだ2・3枚しか終わっていなかったりする。この場合、1番最初に終わった子が教師に何を言われるかというと、「プチ先生になってわからない子に教えてあげて」だ。ひどい時は「もうめんどくさいから本でも読んでいて」になる。このような状態になると、1番最初に終わった子がクラスから浮くことになり、最悪「あいついつも最初に終わっててなんかウゼェ」となり、イジメに発展したりしたりするのである。これが「浮きこぼれ」問題だ。これは決して誇大表現などではなく、私の小学校で実際に起こっていたことだ。私は「わかる人は手を挙げて」と言われたから手を挙げたのに、散々説明して私しか手を挙げなかった事実に激昂した算数の教師に「〇〇さんは黙ってて!!」と言われたことがある。黙るも何も、一言も話してもいないのだが・・・

公立の小学校での授業がこんな感じなので、私の住んでいる地域では頭のいい子はみんな中学受験をして難関中高一貫校に入学して行った。もはや小学校に通う意味が分からなくなってくる。小学校が楽しいならまだ良いのだが「浮きこぼれ」の子は文字通りクラスから浮いたり、イジメを受けたりするので救いがない。私の場合はクラスのみんなが優しかったのでそんなことはなく過ごせたから良かった。こんな教育で良いはずがないのだが、Twitterの事件を見る限り、10年間もこの状態のまま続いているらしい。まあ最終的に言いたいことは、「日本の教育ってなんかおかしいよね!!」