安藤まなのてきとー日記

22歳 発達障害の母の日記です

人生の振り返り その1

2019年の目標は「落ち着く」だったが、最近は本当に落ち着いていて生活リズムも安定して来ていい感じだ。暇な時間が増えたので、またブログでも書き始めようかなと思う。

今までも過去の人生に関する色々な記事を書いたのだが、全部中途半端になっているので(さすがADHD笑)、まとめて今までの人生を一挙に振り返ろうと思う。(本当に続くのかな…)

出生と乳児期

夏の暑い時期の一番暑い時間に元気に誕生した。女の子だったので父と父方の両親は非常に喜んだらしい。これからこの子を育てるのに多大な苦労がかかることも知らずに… 生まれたては非常にブスだった。両親も本人もかわいそうなくらいブス。でも両親はかわいかったみたいなので親ってすごいな。

乳児期の赤ちゃんは3時間に1回起きて、母乳を飲むみたいなのだが、私は9時間ぶっ続けで寝ていたらしい。昔から寝るの大好きだな笑。あまりにも静かだから親は「この子、死んでいるんじゃないか?」と心配したみたいだ。あと親が心配したのは「太り過ぎ」。お腹がまん丸で転がした方が早いみたいな感じだったらしい。病院の先生にも太り過ぎじゃないかと相談したみたいだ笑。まあそんな感じで特に大きな問題もなくすくすと育った。

1歳ぐらいになると、公園デビューやら児童館やらで他の子供と関わる機会が訪れるわけなのだが、私は他の子供に全く興味がなかった。一緒に遊ぶとかする意味がわからなくてずっと1人で遊んでいた。クリスマスパーティーなどに参加しても、他の子供が円になってみんなで遊んでいる中、自分の興味があるおもちゃで1人で遊んでいた。昔からADHD全開。なんで1人で遊んでいたかというと、その方が楽しいからだ。他の子供と遊ぶとなると色々なルールやら順番などが発生するわけで、そういうのが全部めんどくさかった。そこまでして他の子供と遊ぶ意味が理解できなかった。1人だとおもちゃ独り占めできるし、めんどうなことが一切なくてとても楽しかった。

幼稚園時代

幼稚園に入園する時がやって来た。そういう場所に行くと、「ちゃんとしなくては」とか思ってやたら緊張するタイプだ。入園の時も非常に緊張して不安そうな面持ちで参加した。私はなんかよく分からないけど、家にいる時はわがまま放題なのに、外に行くとしっかりしなくてはいけない、ミスをしてはいけないという強迫観念に囚われてしまう。なので先生の言うことはしっかり聞くし、指示を聞くと完璧に1番早く終わらせようとする。先生の評価はとても高いタイプだ。

要するに自分に厳しいわけなのだが、厄介なのが他人にも厳しいところだ。いい子だな、仲良くしたいな、と思う子がいたとしても、その子のダメなところを1つでも発見してしまうと途端に嫌いになってしまう。この時から0か100思考。他人を許容することが極端に出来なかったので、幼稚園で仲の良い友達は1人しか出来なかった。今から思うとその子もかなりADHDみがある子だった。その子といると基本的には楽しかったが、嫌なところもあった。ただ、年中さん以上になると友達が1人もいないとおかしいと先生や親に思われるので、よく一緒にいた。その子は友達だったし、一緒に遊ぶこともあったけど、幼稚園では基本的にはいつも1人で遊んでいた。この頃からあまり他人に興味がないし、深く関わったり、関係を築くのがめんどくさいと思ってのだなと思う。なんか友達が出来なかった隠キャの言い訳みたいに聞こえるのだが、言い訳をしたいわけではない。私は確かに自他共に認める隠キャだ。ただ、あまり集団というものを意識していないこの時期は、友達を作らなきゃと思うこともなかったので、本当に他人に興味が持てなかったんだと思う。そして純粋に他人と関係性を築くことが極端にめんどくさかった。無理してそんなことするぐらいなら、ずっと1人で好きなように遊んでいる方がよっぽど気が楽だったし楽しかった。

そう考えると、1歳ころから他人と関わって関係性を築いたり、ルールを理解してまもって遊ぶことができる大半の人間、社会性が半端ないなと思う。大体において、他人と関わるのはめんどくさい。1人でいた方が好きなことができるし、楽しいはずなのだ。なのに、無意識の内から、わざわざ友達を作って一緒に遊んだりするのだ。集団意識がないこの時期から。人間って本当に高度な社会性を持った生物なんだなあ…しみじみ…

話が逸れてしまった。友達ができなかった理由についてだが、よく考えるとその思考の他に、自分の思っていることや、言いたいことを上手く言語化できないことがあった。自分の感情の言語化は今でも苦手だ。一般的に、ADHDの人は、頭の中で考えていること、感じたことを言語化するのが苦手だと言われている。この頃からその傾向は顕著にあった。感じることはたくさんあるのだが、それを言語化することがほとんど出来ない。何か悲しい事、嫌なことがあって泣いてしまった時に、先生に「何があったの?」と言われても何も説明できずに「泣いているだけじゃ何も分からないよ」と言われることが多々あった。自分の感情を表現することが出来ないので、周りの子供達からも「あの子は何を考えているか分からない」と思われてしまっていたのだと思う。

というか、そもそも、他人と話すことが苦手だった。私は幼稚園でほとんど喋らない子だった。なぜそうだったのかは今になってはもう分からない。もしかしたら他人と喋って自分の考えていることや感じていることを共有するのが極端に恥ずかしかったのかもしれない。

まあそんな感じで友達が全然いなかったわけだが、先生からの評価はすこぶる高く、色々な人から「しっかりしている」と言われていた。先生が指示することは、なんでも的確に早くこなした。先生の教えが絶対で、それを守ることが1番大事なことだと思っていた。だから、気がそれて違うことをやり始めたり、モタモタしていたり、先生の言うことを守れない子が心底嫌いだった。「なんでそんなことも出来ないんだよ」「いいから早くやれよ」とか思っていた。ああ… 書いていて完全に思考が隠キャで嫌になってきた… 隠キャ気質って幼稚園の時からあるのだな… 悲しみ…

しかし、その頃の私はそんなこと全く気にしていなかったので、学年で1番しっかりしている子2人の女の子が選出される、年長さんの時のお遊戯会の合奏の指揮に選ばれた時は非常に嬉しかった。先生や親から評価されることが全てだった私にとってはこれ以上ないほどの嬉しさだった。

まあそんな感じで先生や親からは評価されたけど、友達が1人しかいない社会性皆無の幼稚園時代だった。

 

2018年を具体的に振り返ってみた

2018年

1月

  • 成人式
  • ADHDの症状が大幅に改善され、色々な事にやる気が湧く
  • お金がなかったので謎に引っ越しのバイトをする

 

2月

  • 突然、幼稚園教諭を志す
  • 幼稚園のボランティアに行く(2日で辞める)
  • 幼稚園教諭育成コースのある通信制教育への転入作業に入る
  • 実家の近くのオープニングのパン屋のバイトを始める

 

3月

  • 転入許可待ち
  • 暇なので週6日でバイト
  • エデンに初めて赴く

 

4月

  • 晴れて通信制大学に入学
  • 勉強頑張ろう期間
  • まだ週5日くらいでバイト

 

5月

  • 勉強に飽き始める
  • mojaで行われた出張しょぼい喫茶店にてえもてんさんファンとなる
  • バイトも辞めて暇になる
  • エデンでしんさんと出会う
  • その次の日にしょぼい喫茶店で、またしんさんに会い、シェアハウスを勧められる
  • その次の日にシェアハウス内見
  • その次の次の日にシェアハウスに家出

 

6月

  • しんさんにプロポーズ2回くらいされたけど、プロポーズだと気付かず放置
  • 辛いので実家に戻る(もう会えなくなると思いしんさん真っ青)

 

7月

  • しんさんの3回目のプロポーズで事態を把握し承諾
  • 結婚
  • 結婚後、色々な問題が発生

 

8月

  • 人生最大の修羅場
  • 人生最大の修羅場を潜り抜けたその足で大阪、京都、名古屋を巡る
  • 引っ越して同居開始
  • しんさんの就職先が決まる

 

9月

  • 深夜の引っ越し
  • 家電を買ったり頂いたりして揃える
  • やっと生活らしき生活が始まる

 

10月

  • 料理を始める
  • 生活が落ち着いてきて暇になったのでバイトを探すも中々上手く行かず

 

11月

  • やっとバイトが決まり、バイトを始める

 

12月

  • 楽しいクリスマス
  • バイトと家事を頑張る

 

まとめ

激動の1年だった

でも幸せなのでOKです

 

2019年の目標

落ち着く

 

私の小学校低学年時代

あれから小学校時代のことを色々思い出したのだが、結構カオスな状況だった気がしてきたので書いていこうと思う

まず、私の通っていた公立の小学校は、人数がとても少なく、1学年1クラス20人前後の学校だった。なぜこんなに人数が少ないのかと少なくても学校が存続しているかというのには同じ理由があった。私の小学校には障害者学級があったのだ。近隣の小学校で障害者学級のある小学校は1つしかなかったので、たとえ人数が少なくても閉校するわけにはいかないという状況だった。また、人数が少ない理由も障害者学級があるためだった。縦割り班や学級活動などで障害者の子達と一緒に活動することも少なくなかったため、それを嫌がった親御さん達が、わざわざ違う小学校に入学させていたのだ。まあそんなわけで一緒の学年の子は6年間一緒に育ち、友達というより兄弟に近い関係性になっていた。

人数が少なくてもそこにいわゆる「問題児」は存在する。私のクラスにはかなりすごい「問題児」が1人存在していた。名前をN君とする。N君は今から思うと発達障害の多動性が顕著に現れている子だった。とにかく授業中じっと座っていることが出来ない。授業中しょっちゅう教室内を歩き回り、他の子にちょっかいをかけたりしていた。また、他害の傾向もある子で、気に入らないことがあるとすぐに機嫌が悪くなり、他の子や先生にまで暴力を振るう。それ以外にも、相手の嫌がることが大好きだった。彼が1年生の時には彼の中でスカートめくりが流行っており、女の子のスカートをよくめくっていた。私も1度被害にあったのだが、本当に嫌な気持ちがしたらしく、母親に「もう学校にはスカートを履いていかない」と言ったらしい。母親は最初、一時的な感情だろうと思い、朝、スカートを用意したこともあったそうだが、絶対に履かなかったらしい。私は以降、卒業するまで1回もスカートを履いて登校することはなく過ごした。そしてなぜか彼は私と私の親友Mちゃんを異様に気に入っており、教室の外で会うとつきまとわれたり抱きつかれたりした。1年生の頃に私が隣の席になった時には授業中に急に私の鼻の際に鉛筆の尖った方を刺してきた。かなり痛かった上に鉛筆が結構尖っていたため、鉛筆の先の方の鉛を鼻の際に埋め込まれた形となった。それに気づいた担任の先生は烈火のごとく彼を叱ったのだが、先生の声は彼の耳に届くわけもなく、彼の機嫌を悪くするだけで終わってしまった。1年生の時の担任の先生は子どもたちをかわいがり、一人一人と向き合ってくれる先生だったので、先生と相談し、先生は私を彼の隣の席には絶対にしないということを約束してくれた。この先生は3年生まで担任をしてくれたので、この約束は3年間に渡って続くこととなった。ちなみにこの時のけがの跡は今も残っており、鼻の際をよく見ると今でも黒い点が存在している。また、このNくんのせいで私は男性恐怖症のようなものに陥ってしまった。この後も中学校は女子校、高校は男子がとても少ない国際科の高校、大学は女子大に進んだ。バイト先も男性がほとんどいないバイト先を選んだ。これは中学校を選んだ時以外は特に意識的にしていたわけではなく、無意識的にそうしていた。なんとなく女性しかいない、もしくは少ない環境イコール安全という意識がいつも私の中にあった。小学校の頃に植えつけられた男性恐怖は無意識のうちに私を支配していたらしい。N君による他の子への嫌がらせ、ちょっかいは3年生になっても続いていたが、1年生〜3年生を担当してくれた女性教師が割と若く、可愛らしい先生でN君もデレデレだったことと、低学年の頃は暴力を振るったとしてもまだ力が弱かったこともあり、特段大きな問題は起きないまま過ぎて行った。今から思うと担任の女性教師がN君を上手く手なずけていたことが大きかったのだと思う。母親の言うことさえまともに聞かないN君が担任の先生の言うことだけは聞いていたのだから。

小学校高学年では更に状況は悪化するのだが、それははまた次回書こうと思う。

小学校でのゆとり教育の現状

なぜいきなりこんな記事を書こうと思ったかというと、今日、私の小学生時代の話を夫にした時に、ずっと心の片隅にあった小学校の教育に対する疑問が沸々と湧き上がってきたからだ。

最近、Twitterで話題になったいわゆる「さくらんぼ計算」問題だが、あのような問題は10年以上前の私の小学校でも頻繁に起こっていた。

js-mama-onayamikaiketsu.com

さくらんぼ計算」問題で例えると、私の小学校でもさくらんぼ計算式を書かずに答えだけ書いていたら、点数を減点されていたと思う。「思う」と書いたのは私は実際にそれをしなかったからだ。なぜしなかったのかというと、書かないと減点されることを理解していたからだ。「さくらんぼ計算」問題はまさに昨今の日本の初等教育を代表する分かりやすい事例だ。ゆとり教育下の小学校では、全てが「わからない子」向けに作られており、「わからない子」がわかる様になるために、様々な考え方を教えている。問題はそこではなく、その考え方をすべての子供に強制するところにある。「さくらんぼ計算」問題で例えると、「7+6」は「わかる子」ならばすぐに解答を導き出せるし、何回も問題を解く内に「7+6=13」であることを暗記してしまう。しかし、何回教えても「7+6」を解くことが出来ない子が存在する。そういう「わからない子」に向けて、解き方を分かりやすく説明するために「さくらんぼ計算」は存在するのだ。なので、そういう考え方を説明した上で「わかる子」は普通に問題を解いて解答すればいいし、「わからない子」は、「さくらんぼ計算」を用い、その過程を用紙に書くなりして解答を導き出せば良い。しかし、なぜか昨今の教育では全員「さくらんぼ計算」を使い、その過程をテスト用紙に書き残さなけらばならないとされてしまう場合が多いのだ。

私の場合、「7+6=13」であることは理解出来ていたのだが、授業での先生の発言を聞く限り、「さくらんぼ計算」で問題を解き、その過程をテスト用紙に書き残さなければ点数が減点されることは理解できており、絶対にそんなことで減点されたくないという強い気持ちがあったので、面倒でも計算式をテスト用紙に書くようにしていた。悲しいことに、私の小学校の算数の教師は「さくらんぼ計算」を教える時に、その方法で問題を解き、計算式を書き残さないとテストで減点することを何度も繰り返し生徒に力説していた。正直なぜそこまでするのか微塵も理解できないが、実際にそうだったのだから仕方がない。

さくらんぼ計算」問題のような教育に疑問を持つご家族のツイートを見る限り、お子さんは私の様にその方法で問題を解き、計算式を書き残しなさいということを教師に言われていたが、聞いていなかったという可能性もあるのかなと思う。もちろん、そうではないかもしれないし、それを言わずに勝手に減点する教師が居たらかなりひどいと思うが、頭がいい子というのは教師の話を聞いていないことが多いと感じる。私の小学校では、私が1回目の授業の最初の10分くらいで理解できることを5回の授業に渡って説明したりしていた。私は真面目な生徒で居たかったので真面目に授業を聞いていたが、頭がいい子はそんな授業は聞かなくなる可能性が高い。その間、暇になるので何をするかと言うと学習塾の予習復習だ。そんなことしても本末転倒だ!という意見が聞こえてきそうだが実際これがそうでもない。なぜなら、ゆとり教育下にある小学校で習っている内容より、中学受験のための大手学習塾で習う内容の方が遥かに進んでいるからだ。(ちなみにここで言う学習塾とは、個別教室の塾などは含んでおらず、あくまで中学受験で難関中学に合格することを目的としたスパルタ的な学習塾のことである)私の実際に通っていたのだが、本科授業が小学4年生から始まる塾で4年生で習った算数の内容で、兄の友達の6年生の算数の宿題を教えることが出来た。ちなみに私の兄は私より頭が良く、国立大学に現役合格したのだが、小学校は遊ぶために通っていると言っていた。学習塾で習う内容は魅力的で面白いが、小学校で習う内容は退屈でつまらないと言っていた。兄は学習意欲も高かったので、学習塾は熱が出ても休まなかったが、小学校は熱が出たら休んでいた。

これは、ゆとり教育の問題点である「浮きこぼれ」問題にも直結している。ゆとり教育はとにかく「わからない子」に合わせて作ってあるため、勉強ができる子は逆に周りから浮いてしまう。「浮きこぼれ」がどういう状態かと言うと、例えば10枚の算数のプリントがあったとする。この10枚は一つの単元の練習問題だ。これを解かせるために、まず、教師はその単元の内容を生徒に教える。教えを終わったところで、「ではプリントの練習問題をやってみましょう」となる。クラスの人数が20人だったとして、1番最初に10枚やり終えた時、1番遅い子はまだ2・3枚しか終わっていなかったりする。この場合、1番最初に終わった子が教師に何を言われるかというと、「プチ先生になってわからない子に教えてあげて」だ。ひどい時は「もうめんどくさいから本でも読んでいて」になる。このような状態になると、1番最初に終わった子がクラスから浮くことになり、最悪「あいついつも最初に終わっててなんかウゼェ」となり、イジメに発展したりしたりするのである。これが「浮きこぼれ」問題だ。これは決して誇大表現などではなく、私の小学校で実際に起こっていたことだ。私は「わかる人は手を挙げて」と言われたから手を挙げたのに、散々説明して私しか手を挙げなかった事実に激昂した算数の教師に「〇〇さんは黙ってて!!」と言われたことがある。黙るも何も、一言も話してもいないのだが・・・

公立の小学校での授業がこんな感じなので、私の住んでいる地域では頭のいい子はみんな中学受験をして難関中高一貫校に入学して行った。もはや小学校に通う意味が分からなくなってくる。小学校が楽しいならまだ良いのだが「浮きこぼれ」の子は文字通りクラスから浮いたり、イジメを受けたりするので救いがない。私の場合はクラスのみんなが優しかったのでそんなことはなく過ごせたから良かった。こんな教育で良いはずがないのだが、Twitterの事件を見る限り、10年間もこの状態のまま続いているらしい。まあ最終的に言いたいことは、「日本の教育ってなんかおかしいよね!!」

夕方から家事を頑張った話

10月21日、朝から起きて洗濯物をしようと思ったのだが、眠くて起きられず、起きたら15時を過ぎていた。今日は掃除も片付けも料理もしようと思っていたのに・・・と少し落ち込んだ。しかし、今からでもやるしかないなと思い、家が崩壊しかけていたので片付けから手を付けた。片付けが終わると、ルンバのスイッチを入れ、洗濯を始めた。この時間から洗濯をしても乾かないことは明らかだが、明日も晴れるようなので夜通し干しておけば良いかと思い、洗濯した。本当はあまり良くないようなのだが、洗濯物が溜まっているので致し方ない。洗濯機を回している間に、買い物に行った。この日はカレーを作ろうと思っていたので、その材料を買いに行った。最近気づいたのだが、家の周辺は結構物価が高い。特に野菜が高くて困っていた。色々見て回るうちに、野菜はスーパーで買うより個人商店で買う方が安いことに気がついた。今日は目を付けていた個人商店で野菜を買おうと意気込んでいたのだが、今日が日曜日だったため、休みだった。これにはかなりガッカリした。しかし、落ち込んでいても仕方がないので、1番安いと思われるスーパーに買い物に行った。夕方だったのでスーパーはかなり混んでいた。結構並んでなんとか買い物を済ませ、速攻で家に帰った。家に帰るとすぐに洗濯物を干した。残念ながらもう日は落ちてしまっていた笑。干し終わると、今度は料理に取り掛かった。料理の途中で油を切らしていたことに気づき、仕方ないので家から一番近いスーパーに買いに行った。本当に行き当たりばったりだな笑。なんとか料理が完成し、家を見渡すとまだ結構散らかっている。要らなそうな物がそこかしこに散らばっていた。また片付けを始めた。片付けは始めるとなかなか終わらない。やっている最中にお腹が空いてきたので、切り上げて一回ご飯を食べることにした。ご飯を食べた後、残ったカレーを冷凍し、ご飯を冷蔵した。この日は夫は仕事で東京に行っていたので、帰りが遅かったからだ。洗い物を終わらせ、また片付けに取り掛かった。ついでに洗面台とトイレとお風呂の掃除もした。ここまできてやっとやろうと思っていたことが大体終わった。その後、お風呂に入りブログを書いた。

ADHDは時間が拘束されなければ、色々なことが出来るなあと思う。毎日決まった時間に起きたり出かけたりすることは出来ないため、時間が決まっている仕事は出来ないが、時間が決まっておらず、何時までにやっておけばよいという仕事だったらやることができる。また、何時に行っても構わない職場だったら、ストレスなく仕事をすることが出来るだろう。ADHDには過集中というものがあるので、一度やる気が起きれば一気に終わらせることも可能だ。そんな仕事はあまりないが、真剣に探せば見つけることもできる。ADHDの人にとって、環境はとても大事だなと思う。ADHDの人は基本的には、普通の環境に合わせようとして、それが出来なくて病んでしまったり、2次障害が出てしまうことが多いと思う。ADHDの人にとって、普通の環境に適応するのはかなり難しいことなのだと思う。私も何度も挫折したし、もうほとんど無理なことが分かった。適応しようとして、かなり病んでしまい、死にたくなったことも数え切れないほどある。しかし、そういう環境に身を置かなくても生活していけるようにさえなってしまえば、こちらの勝ちだ。まあそうなるのも簡単なことではないとは思うのだが。実際にそうやって生きている人も居るには居て、楽しそうに生活しているなあと憧れている。私もそんな風に生きたいと思っている。まだまだ生き方を模索する日々は続く・・・

夫の言葉で一喜一憂する私

10月19日、気持ちはまだ落ち込んだままだった。涙が出て来て止まらない。夫の仕事を邪魔してしまったことがかなり心にキていた。私は今、アルバイトも何もしておらず、お金を稼いでいない。夫の稼ぎと貯金で養ってもらっている。その状況で、私の気持ちが落ち込んだことで夫の仕事を邪魔してしまうとか、もう私の存在価値なんてないし、もはや私が生きてる意味がないなとか思っていた。ずっと気分が塞いでいたままだったので、ショッピングモールに行くことにした。服を見るとテンションが上がると思ったのだが、全然テンションが上がらなかった。しょうがないのでミスドに行った。この日は夫が東京に行っていたのだが、ミスドにいる間に夫が家に帰って来ていた。なるべく早く帰った方がいいなと思い、すぐ帰ることにした。帰って、夫と話をしている時に、夫が「私がいるから俺は仕事を頑張れる」と言ってくれた。この1言で気持ちがだいぶ楽になった。私がいることで夫が仕事を頑張るモチベーションに繋がるなら私の存在価値あるじゃんと思ったからだ。私は本当に単純な人間だなと思う。でも、案外人間ってそういう結構単純なものなのではないかなとも思う。人間はみんな、恋人や配偶者の1言で落ちこみ、1言で嬉しくなる。そんなものではないかなと思う。

今回は落ち込んだ原因も回復した理由も夫の1言だった。結婚するまでは、誰かの1言でこんなに落ち込んだりすることはなかったなあと思う。しかし、悪い事ばかりではない。1人の時は落ち込むと回復するのが難しく、随分と時間がかかったりしたが、今は夫の1言で回復してしまう。また、無気力な時も実家にいる時は1日中寝ていたし、外に行くことも出来なかったけど、今は無気力になっても夫にどこかに連れ出してもらえたら回復するし、なんだかんだやらなければいけないことがあったりするので1日中寝ることはなくなった。結婚する前は極端に落ち込んで、生きている意味とか考え始めることもあったが、今はそれもなくなった。こんなにストレスなく生活が出来ているのも今まではなかった。夫のおかげで改善されたことは数多い。夫には感謝しかない。最初は結婚を良く思っていなかった私の両親も、私が元気で心穏やかに過ごしているのを見て、結婚して良かったと思うようになってくれた。その上、最初は夫を攻撃していたのに、今は夫に感謝しているみたいだ笑。これは夫の人間性もかなり影響していると思う。

まあ、結局落ち込むも楽しいと感じるも自分の心次第なので、これからはあまり落ち込むことなく楽しく毎日を過ごしていけたらいいなあと思う。

かなり落ち込んだ話

10月18日、調子が良く、気分が落ち着いていたのだが、夜、些細なことで気分がかなり落ち込んでしまった。些細なこととは、夫から少し強く責められた気がしたことだ。私は夫の言葉で落ち込んでしまうことが良くある。夫は強く言っているつもりはない言葉でも、私には強く感じられてしまう。夫に責められた気がすると、私はこの世に存在価値がないのではないかと思うくらい落ち込んでしまう。どうにかしないといけないのだが、私は自己肯定感が低すぎるので、ちょっと強く責められた気がしただけでそこまで落ち込んでしまうのだ。ただ、夫に言っても夫はそんなに強く言ったつもりはなく言ってしまうので、改善のしようがない。私が傷ついたと言っても、今度は夫がそんなに強く言ったかな…と落ち込んでしまう。結果、2人でずーんとなってしまう。

責められた気がして、落ち込んでしまったので、寝室にこもり、泣いていると、夫が気分転換に外にドライブしようと提案してきた。夜の21時くらいだったけど。とりあえず40分くらいドライブしていた。夫が運転してくれて、時々話しかけてくれたりしたけど、私はずっと泣いているだけだった。目的地の海に着いたら、結構寒かった。そこでちょっと話をしたら少し落ち着いたので、またドライブして帰った。今度は泣かなかった。家に着くと、今度は夫がかなり辛そうだ。どうしたのか聞くと、今日やろうと思っていた仕事が全然終わってないらしい。夫は夜から明け方にかけて仕事を終わらせることが多い。夜ご飯の後、何も起こらなかったら、その後仕事をするつもりだったのだろう。私は「しまった…」と思った。また夫の仕事を邪魔してしまった。夫の仕事には納期があるので、ハプニングが起きて無駄に時間が取られると、かなり大変なことになってしまう。私は傷ついて落ち込んでしまうと、周りが何も見えなくなってしまうのだが、落ち着いてから考えると大体私が悪いのだ。とりあえず落ち込んでいる夫と向き合うしかない。

色々話を聞いた後に、眠くなったのか夫は寝てしまった。寝るのは、落ち込んだ気持ちを回復するのに一番効果的だ。夫が寝られて良かったなあと思った。私も寝ようと思ったのだが、私が寝られなくなってしまった。グダグダしていると、夫が起きてきた。結局、私はお風呂に入ることにした。夫は仕事を始めた。仕事のやる気が入って良かったなあと思った。私はまた急に悲しくなってきてしまって、ずっと泣いていた。夫が仕事の目処がたったところで慰めに来てくれた。ポップコーンを作ってくれて、2人で食べた。食べながら少し話をしたら落ち着いて、寝ることが出来た。

というわけでかなり落ち込んでしまった話だ。2人で生活していると、実家にいる時は無かった悲しみがあるなと感じた。でも2人でいる方が全然楽しいので、結婚して良かったなあと思う。今後こういうことが無いように工夫していかなければいけないなと思った。