安藤まなのてきとー日記

22歳 発達障害の母の日記です

私の小学校低学年時代

あれから小学校時代のことを色々思い出したのだが、結構カオスな状況だった気がしてきたので書いていこうと思う

まず、私の通っていた公立の小学校は、人数がとても少なく、1学年1クラス20人前後の学校だった。なぜこんなに人数が少ないのかと少なくても学校が存続しているかというのには同じ理由があった。私の小学校には障害者学級があったのだ。近隣の小学校で障害者学級のある小学校は1つしかなかったので、たとえ人数が少なくても閉校するわけにはいかないという状況だった。また、人数が少ない理由も障害者学級があるためだった。縦割り班や学級活動などで障害者の子達と一緒に活動することも少なくなかったため、それを嫌がった親御さん達が、わざわざ違う小学校に入学させていたのだ。まあそんなわけで一緒の学年の子は6年間一緒に育ち、友達というより兄弟に近い関係性になっていた。

人数が少なくてもそこにいわゆる「問題児」は存在する。私のクラスにはかなりすごい「問題児」が1人存在していた。名前をN君とする。N君は今から思うと発達障害の多動性が顕著に現れている子だった。とにかく授業中じっと座っていることが出来ない。授業中しょっちゅう教室内を歩き回り、他の子にちょっかいをかけたりしていた。また、他害の傾向もある子で、気に入らないことがあるとすぐに機嫌が悪くなり、他の子や先生にまで暴力を振るう。それ以外にも、相手の嫌がることが大好きだった。彼が1年生の時には彼の中でスカートめくりが流行っており、女の子のスカートをよくめくっていた。私も1度被害にあったのだが、本当に嫌な気持ちがしたらしく、母親に「もう学校にはスカートを履いていかない」と言ったらしい。母親は最初、一時的な感情だろうと思い、朝、スカートを用意したこともあったそうだが、絶対に履かなかったらしい。私は以降、卒業するまで1回もスカートを履いて登校することはなく過ごした。そしてなぜか彼は私と私の親友Mちゃんを異様に気に入っており、教室の外で会うとつきまとわれたり抱きつかれたりした。1年生の頃に私が隣の席になった時には授業中に急に私の鼻の際に鉛筆の尖った方を刺してきた。かなり痛かった上に鉛筆が結構尖っていたため、鉛筆の先の方の鉛を鼻の際に埋め込まれた形となった。それに気づいた担任の先生は烈火のごとく彼を叱ったのだが、先生の声は彼の耳に届くわけもなく、彼の機嫌を悪くするだけで終わってしまった。1年生の時の担任の先生は子どもたちをかわいがり、一人一人と向き合ってくれる先生だったので、先生と相談し、先生は私を彼の隣の席には絶対にしないということを約束してくれた。この先生は3年生まで担任をしてくれたので、この約束は3年間に渡って続くこととなった。ちなみにこの時のけがの跡は今も残っており、鼻の際をよく見ると今でも黒い点が存在している。また、このNくんのせいで私は男性恐怖症のようなものに陥ってしまった。この後も中学校は女子校、高校は男子がとても少ない国際科の高校、大学は女子大に進んだ。バイト先も男性がほとんどいないバイト先を選んだ。これは中学校を選んだ時以外は特に意識的にしていたわけではなく、無意識的にそうしていた。なんとなく女性しかいない、もしくは少ない環境イコール安全という意識がいつも私の中にあった。小学校の頃に植えつけられた男性恐怖は無意識のうちに私を支配していたらしい。N君による他の子への嫌がらせ、ちょっかいは3年生になっても続いていたが、1年生〜3年生を担当してくれた女性教師が割と若く、可愛らしい先生でN君もデレデレだったことと、低学年の頃は暴力を振るったとしてもまだ力が弱かったこともあり、特段大きな問題は起きないまま過ぎて行った。今から思うと担任の女性教師がN君を上手く手なずけていたことが大きかったのだと思う。母親の言うことさえまともに聞かないN君が担任の先生の言うことだけは聞いていたのだから。

小学校高学年では更に状況は悪化するのだが、それははまた次回書こうと思う。