安藤まなのてきとー日記

22歳 発達障害の母の日記です

不幸せな学生時代と幸せな今

2月9日、13時起床。昨日はなぜか寝られなくなってしまって、4時まで起きていた。寝られなくてゴロゴロしていたのだけど、寝られないし飽きてきたので、制作中のアイロンビーズに取り掛かった。結構集中して出来て、気付いたら2時間半もやっていた。これで全体の3分の1くらい終わった。寝られなかったけど、アイロンビーズを進める事が出来たので、満足だった。

今日は夫の仕事が休みだったので、2人でファミレスに出掛けた。夫の仕事は休みと言っても、家で出来る作業は無限にあるので、ファミレスに行って作業していた。私は何をしていたのかと言うと、自分のレシピ本を作っていた。夫が1人暮らししている時に買ったレシピ本が最近片付けをしていたら出てきたのだが、見てみると簡単そうで美味しそうな物ばかりだった。去年の9月くらいに自炊を始めようとした時に、夫はその本を勧めてくれたのだが、その頃は料理した事が全くなかったので、その本のすごさが分からなかった。少し自炊をするようになってその本を見てみたらとても魅力的だった。しかし、レシピ本というのは、材料別やカテゴリー別になってない事が多い。私はそういう細かいところがすごく気になってしまうので、自分の好きなようにノートにまとめようと思ったのだ。

思えば学生の頃からノートを綺麗にまとめるのが好きだった。まとめた結果満足してそれを暗記するのを怠ったりはしていたが笑。今日は久しぶりに書いていたら、漢字が意外と書けなくなっていて驚いた。漢字は書かないと忘れていく物みたいだ(当たり前)。最近はブログやメールやLineなど、全てスマホやパソコンで文章を打っているので、あんまり書く事をしていなかった。そして、書くということはとても時間がかかるし、疲れるということが分かった。1時間集中して書いただけで相当疲れたので、学生時代の私は凄かったんだなと思った。学校に通っていると板書をノートに写すだけで相当な時間になる。それに加えて放課後も塾に行って板書を写したり、それのノートまとめをやっていた。今から考えると相当凄い。

学生時代は、学校に毎日通わなくてはならなくて辛い上に、実家で母親と暮らしていたので精神的に相当キツかった。朝が極端に弱いので朝起きて学校に行くのも辛いが、だからと言って休むと1日中責められた。しかもその上に一種の強迫観念で放課後は毎日勉強しなければならないと思っていて、勉強出来なかった日は自分を責め続けていた。学校にも通えなくて、勉強も思うように出来ない自分なんて死んだ方がいいのになと思っていたし、そのような事を母親にも言われていた。毎日人生って本当に辛いことしかないな…と思って生きていて、100%楽しい時間など 滅多に存在しなかった。

実家ではよく、「人生の何が楽しくて生きてるの?」と家族に聞いていた。母親は「今は辛くても楽しいと思える日がきっと来るよ。」と言っていたのだが、自分で娘に「あんたなんて生きる価値がない」とか言っておきながらよくそんなことが言えたなと今は思う笑。母親といる限り私は絶対に幸せにはなれなかったのに…

まあそんな感じだったが、今は母親と離れて好きな人と暮らして、好きなことが出来ているので本当に幸せだ。学生時代の自分に「本当に楽しくて幸せな生活が待ってるよ」と伝えてあげたい。

家に帰る途中で買い物をして家に帰った。今日も夜ご飯を作る事が出来た。料理をしている時間は結構長いのに食べるのは一瞬だなと思った。食べた後で片付けもしなくてはならないので結構大変だ。夫に最近頑張りすぎだよと言われた。こんな事で頑張りすぎと言ってくれる夫も大概優しいが、確かに最近私にしては結構頑張っている。1ヶ月の間で調子が良い時と悪い時のサイクルが大体あるのだが、そういえばこの頃は一番調子が良い時だ。そんな時は毎日料理をしたり、ブログを書く事ができる。調子が良い時に頑張っても頑張らなくても、そのうち体が勝手に動かなくなる時が来るので今は頑張っておこう笑。調子のサイクルがある事も分かっていて、調子が良いかどうか分かって、しかも何も出来なくなっても責めない夫でとてもありがたい。私は普通に生活する事が出来なくて、体力が異常なほど無かったり、寝ている時間が異常に長かったり、普通の人には理解しがたい事が多いのだが、夫のその辺に対する理解力はすごい。私の父親の方は私を結構理解してくれていたのだが、20年間かけて徐々に分かって来た感じだった。夫はすでに父親と同じくらい私を理解している。というか、結婚する前からある程度分かっていたみたいだ。プロポーズされた時に、「私は本当に何も出来ないんですけど良いんですか?」と聞いたのだが、「家にいてくれるだけで良いです」と返された。そして本当に1日ほとんど寝てて何もしなくても何も言わない。

20年間、普通に生きられない事への絶望に打ちひしがれて、生きるのが辛すぎて人生辞めたいと思っていた人間も、1年後には幸せな状況になっていることもあるのだなあと思った。夫と出会えて本当に良かった。

久しぶりの図書館と料理

11時起床。最近は、14時15時まで寝たり、1日中何もしないで寝ている事が少なくなった。ストレスがないからだと思う。非常に良い傾向だ。

夫が仕事に行くのを見届けてから図書館に行った。図書館と言えば、前に夫が中央図書館に行った時にめちゃめちゃショボかったと言って帰ってきたことがあった。そこでネットで調べてみたところ、市内ではないのだが比較的近くて大きそうな図書館があって、車で夫と行ってみたことがある。結構大きくて蔵書数もそれなりにあり、借りたい本もあったのだが、指定の市に住んでいる人しか借りられないと言われ、本を借りる事が出来なかった。なんだその謎システムという感じだった。県内ならどこでも良いのではないのかとガッカリした。県内でエリア分けがされているみたいなのだが、最近引っ越して来たのでそれが分からない。何を基準にエリア分けしているのだろうか。謎である。

まあそんなこともあって、市内なら借りられるだろうと思って市内で一番大きな図書館に行ってみた。でもそんなに大きくなかった笑。夫と行った図書館の半分くらいしかなかった。まあそんなこと言っててもしょうがないので、借りたい本を探すことにした。なんとなく面白そうだと思った本を借りようと思ったのだが、借りたい本が特になかった。このまま何も借りずに帰ろうかなと思ったのだが、寒い中自転車で30分くらいかけて行ったので何か借りようと思って考えた。好きな著者とかいなかったかなあと考えていて、そういえばカズオ・イシグロの『Never Let Me Go』(私を離さないで)を読んで猛烈に感動したことを思い出した。私の通っていた高校は国際科の高校で、英語の原書を読んで、宿題で英語の質問に英語で回答して、その答え合わせと解説を英語でするという授業があった。その授業の高校2年の時に使う原書の中に『Never Let Me Go』があった。なので、読んだはずだったのだが、その時は内容をあんまり覚えていなかった。授業とか関係なくまた読みたいなあと漠然と思っていたところに、一昨年カズオ・イシグロノーベル文学賞を受賞したニュースを見た。それでネバレミの人じゃん!(私の高校ではみんな書名を略してネバレミと呼んでいた)となって、そのニュースが流れている最中に図書館で予約した。すぐに予約したおかげで3番目に予約する事ができた。というのも、東京は人口が多いので、有名になった本はすぐに予約でいっぱいになってしまうのだ。『Never Let Me Go』も1日経ってから予約数を見てみたら300件を超えていた。私の母は図書館で働いていたのだが、芥川賞を受賞した又吉直樹の『火花』は、1つの区だけの予約数で一時期1000件を超えたらしい。ちなみに今でも予約数ランキングに常時ランクインしているのですごい。

『Never Let Me Go』の何に感動したかというと、繊細な心理描写だ。心理描写がとても細かく描かれていて、しかもそれがどれも自分もこんな感じの時あるなあという感じの描写なのだ。人間の心の動きというのを実に上手く文章化していると思う。それだけでなく、ストーリー自体もすごく面白い。特に最後の方は、「どうなるんだろう」と感じさせる展開で、読み終わった後は人間の感情の闇やどうしようもなさを深く感じさせる内容だ。

そんなわけで、カズオ・イシグロの本が読みたいなあと思って検索したら、『充たされざる者』という本が上下巻揃って置いてあったので、それを借りて帰ることにした。ブッカー賞を受賞した『日の名残り』も読みたかったのだが、貸出中で予約も3件入っていた。さすがノーベル文学賞受賞作家、人気は今も健在である。これから予約することにしよう。

そのあとはお昼ご飯を食べて、夕飯の買い出しをした。明日は雪が降るみたいなので、明日買い物しなくても良いように、明日の夕飯の材料も買った。あちこちのスーパーに行ったので、買い物だけで1時間以上かかってしまって、帰ったらすごく疲れていた。疲れたので少し休んでいると、夫が帰って来たので夕飯を作った。久しぶりにちゃんとした夕飯を作ったなあという感じだ笑。これから作る回数を増やしていきたい。

当たり前ではない日常

2月7日、12時起床。14時ごろ夫とショッピングモールに出かけた。ずっと欲しかった物が買えたので良かった。私は車が運転できないので、大きなものを買う時は夫に車で一緒に行ってもらうしかなくて少し申し訳ない。今年中に免許を取ろうかなと考え中だ。お昼ご飯も食べて帰宅。最近また新しく始めたい事があって、それを夫に話したら色々と調べてくれた。何か「やりたい」と言うと、特に反対もせず協力してくれるので非常に嬉しい。まああまりにも途方もない事だとさすがに止めるのだろうけど笑。

その後夫が仕事に出かけたので、家の掃除を始めた。家にはルンバがあるので、そんなに大変でないはずなのだが、最近は物が結構増えてきてしまったので、一々どかさなくてはならなくて少し大変だ。すっきりさせたいのだけれど、生活や仕事に必要なものばかりなので捨てられない。もっと上手く収納する方法を考えなければならないのだろうか…

掃除したら疲れたので、お風呂に入ろうと思ってお風呂の掃除を始めた。最近排水溝の掃除をやっていなかったので、汚いだろうなと思って見てみたら、案の定汚かった。ゴミが詰まっていて、こんなんでよく水が流れたなあという感じだった。最近真面目に風呂掃除をしていなかったので、今日は入念にやった。お風呂のピンクヌメリやカビは大体激落ち君で落ちるのですごい。激落ち君は最強だ。掃除の時は結構何にでも使っている。

そいうえば、実家ではお風呂の掃除は大体父がやっていたことを思い出した。排水溝は1週間に1回必ず掃除していた。排水溝は掃除しないと水が流れなくて溢れかえってしまう。私は1回それをやったことがある。しかし、実家では1回もそうなったことはない。父は、それに加えて、ゴミの分別とゴミ出し、洗い物などをやっていた。実家ではゴミが溜まって困ったことはないし、前の日に使った食器やコップは綺麗に洗われて、次の日の朝にはいつもの場所にしまってあった。最近はこれが当たり前のことではなく、すごいことだったんだなあと感じるようになった。

排水溝が詰まって水が溢れかえらないこと、ゴミが家の中に溜まって困らないこと、前の日に使った食器が綺麗に洗われて使えるようになっていること、月が変わるとカレンダーがめくられて新しい月になっていること、毎日洗濯されて清潔な衣服を着ることができ、着るものがない状態にならないこと、毎日温かい食事にありつけること、こんな当たり前に感じていた状態が、誰かのたゆまぬ努力によって支えられていたことを最近はすごく感じる。当たり前のことなんか何一つない。誰かが頑張ってくれているからその状態を当たり前に感じることが出来る。私はポンコツなので、少し気を抜くと、ゴミは何袋も溜まってしまうし、物は散乱するし、排水溝が詰まって水が溢れかえる。本当は完璧にやりたいけれど、なかなかそうは出来ない。

私は色々な事が出来ないけど、こうして生きる事が出来ていて、それは夫を始めとした色々な人に支えられているからだなあと感じる。これからもポンコツなりに頑張って、そしてなにより、周りの支えてくれている方々に日々感謝を忘れずに生きていきたいと思う。

久しぶりの日記

今日は昼に起きたら雨が降っていてすごく寒かった。夫は仕事に行っていていない。1人で家にいても寂しいので、1人の時は大体どこかに出かけるのだが、今日は出来ないなあと思った。

最近はアイロンビーズにハマっていて、今、結構大きな作品を作ろうとしている。作ろうとして、最初に自分でドット絵を作成した。夫からは、「そこからやるの!?」とビックリされたのだが…最近、ドット絵が完成して、やっとビーズを並べる段階まで行ったので、今日はそれをやろうと思った。

やり始めると、意外と大変だった。ドット絵は出来ていて、きちんと並べているはずなのに、なぜかズレていてやり直すのを何回もやった。そんなこんなでなんとかやっていると、90×90で作ったつもりだったのだが、実際には100×100だったことに気づいた笑。割と落ち込んだ。しかも90×90の時点で、めっちゃでかい。これは無理だなと思ったので、60×60に変更する事にした。

夫には「90×90なんて絶対ムリだよ。もっと小さいの作りな」とずっと言われていたのに、私は「出来る出来る!!」と言って頑張ってドット絵から作っていた。私はやろうと思ったらものすごい勢いで物事を進めてしまう。周りがどんなに止めても全く言う事を聞かない。そして、やり始めてから「あ、これ無理だったわ」と気づいて、周りに「やっぱりね」と言われてしまう。

今回もまさにこれだった。私は自分でやろうと思って始めて、最後まで出来る事がほとんどない。衝動性も強いが、計画性が全くないのだ。やろう!!と思うと、特に計画やこんな事が起きる事が考えられるというのを何も考えずに行動してしまう。衝動に任せて行動してしまう事はあまり無いのだが、たまにこれが発動してしまう。

母親との関係が上手くいかなかったのも、これが関係しているなと思う。昔から自分で「こうしよう」と決めてやっても、成功する事がほとんどなかった。すると、母親は「ほら、やっぱり無理だったでしょ。あなたは私の言うことだけ聞いてれば良いのよ。それが一番あなたの為なのだから」と言って、自分の意思で何か行動することを規制するのだ。まあ自分の意思で行動してもあんまり上手く行く事がないので、親としてどう対処するかは難しいなと思う。

今日はその事で結構落ち込んでしまった。なんで私がやろうとする事はほとんど上手く行かないのだろう。周りに止められたら素直に聞いた方が良いのかなとか考えた。私も衝動的に行動してしまうのも、計画性が全く無いのも自分で分かっていて、自分でもすごく嫌なのだ。周りから指摘される事は自分で一番よく分かっているのだ。一番嫌な気持ちなのも自分だ。なのに、周りからドンドン責められるので、もっと嫌になってしまう。そして自己肯定感がドンドン下がるのだ。ADHDの人は自分でも分かりきっていても出来ない事が多い。それが周りに全く理解してもらえないので、反省していないとか怠けていると言われる。普通に社会生活を送るのに本当にことごとく向いていない。

でも今は、そんな事も全て受け入れてくれる夫と暮らしているので、本当に幸せだ。私の行動は意味不明な事も多いし、自分でも意味不明だなと思う事もあるのだが、特に何も言わずに見守ってくれている。失敗しても「ドンマイ」くらいの感じで居てくれる。本当にありがたい。

そんな感じで、少し鬱になりつつも、夫のありがたさを感じ1日だった。

人生の振り返り その2

小学校低学年時代のことはこちらのブログにも書いたのだが、今回は違う観点から書いていこうと思う。

小学校に入って困ったことは、人前で話せないことと他人と話すことが出来ないことだった。人前で話そうとすると極度に緊張して何も喋れなくなってしまう。幼稚園の頃にも人前で話すことはあったのだが、全部セリフが決まっていたり、何人かで喋るので特に問題がなかった。また、人前で何か行動するのは大丈夫だった。

小学校では日直制度があって、日直の人は朝の会、帰りの会の司会をやるのだが、朝の会に「1分間スピーチ」というものがあった。決められたテーマについて日直が1分間スピーチをし、聞いた人が質問や感想を言うというものだ。大半の子は、話の内容は特に何も考えてず、その日に適当に話すと言う感じだった。話していると1分経たずに終わってしまい、「あれ、やべえ笑」みたいになる結構ゆるい感じだった。しかし、私はそれが出来なかった。最初の頃は多分何も話せなくてその場に立ち尽くしていたのだと思う。見かねた先生が、私は特別に前もって話す内容を考えておいて、それを紙に書いて持ってきて、それを読み上げていいということにしてくれた。私は3日前くらいから話す内容を必死に考えて紙にまとめてそれを読み上げることにした。自分の中で完璧に推敲して仕上げた内容だと、不思議とそれを読み上げることは出来た。わずか18人しかいないクラスだったのだが、もう1人人前で喋れない子がいて、その子も同じルールになった。ただ、その子は紙に書いてきても上手く喋ることができず、泣きながら15分くらいかけて読み上げていた。今から考えるとかなり残酷だ…

1,2年生の時の休み時間は、女の子何人かで校庭で遊んでいた。私はあんまり喋らなかったけれど、不思議と一緒に遊んでくれる子はいた。一輪車がすごく流行っていたので、何人かで一輪車をして遊んだ記憶がある。私は乗れるようになるまですごく時間がかかったのに、友達は根気強く乗り方を教えてくれた。本当に良い子達だったなあ…ただ、放課後は友達と遊ぶことはなく、真っ直ぐ家に帰って弟と遊んでいた。弟と遊ぶのが大好きだったので、結構楽しかった。

3年生になると、特に仲が良い友達が出来て、その子の家が実家から近かったので、放課後頻繁に遊びに行っていた。

クラスは、多少騒いだりうるさかったり先生の言うことを聞かなかった生徒はいたが、担任の先生はちゃんと怒る先生だったし、よく生徒達を手懐けていたので、別段大きな問題は起こらなかった。問題児N君は私につきまとってきたり、授業中にうるさくしたりするのでこの頃から大嫌いだったけど。

1年生から3年生まで担任の先生が同じだったのだけど、その先生のお陰でだいぶ人前で話せるようになったので、今でも本当に感謝している。優しいけど、きちんと叱るし、生徒1人1人に向き合うとても良い先生で大好きだった。その先生と、優しい友達に囲まれて楽しい低学年時代だった。私の学校生活の中で1番楽しかった時代だった。

毒親気質な母親のもとで育った

昨日は実家に泊まって、今日は朝からADHDの診断の方で通っている病院に行った。

日常生活の事などを先生に話した。先生もADHDなので(医学部を卒業されて医者として開業なさっているので私とは比べ物にならないが)、私が困っていることにとても共感してくださって、それが怠けているわけではないことを両親に説明してくださった。本当に良い先生に巡り会えて良かったなあと思う。両親の話で印象に残ったのは、私の性格が穏やかになったということだ。実家にいる頃は何となくピリピリしていて、怖い雰囲気だったらしい。それが最近はめっきり穏やかになり、優しい雰囲気になったということだ。やはり環境は人を変えるんだなあと思った。私の母親はいつも私の事を否定していたが、夫は些細な事でも褒めてくれる。私はネガティブなので「そんな事ないよ」と言っているのだが、内心はとても嬉しい。しかし、私はあんまり夫を褒めていない事に気付いたので、これからは積極的に褒めて行こうと思う。

その後は母親と少し買い物をして、お昼ご飯を食べて実家に帰った。母親は私と仲良くしたがっているので、ずっと一緒に居れば機嫌が良い事が分かった。ただ、私はあんまり母親の話には興味が無いし、畳み掛けるように話すのであまり聞いていて心地良くはない。でも母親は、普段あんまり話を聞いてくれる人が居ないようなので、私と話したいみたいだ(ほとんど一方的に母親が喋っているだけなのだが…)。

実家に帰って少し休もうと思ったのだが、母親が夜ご飯の支度を始めたので、見学していた。もうかなり疲れていたので休みたかったのだが、純粋に最近は料理に興味を持ち始めたので、頑張ってどうやって作っているのか見たり聞いたりメモしたりした。最近は私も料理する事が増えてきたので、母親の料理を見ているのは楽しかった。自分の中の疑問が色々解決された。母親は私が熱心に見学しているのでとても上機嫌だった。

ここまではまあまあ仲の良い親子というところだろう。しかし、これは私が母親の思う通りに行動しているので上機嫌なだけであり、少しでも希望にそぐわない行動をすれば、母親はたちまち不機嫌になるのだ。

2週間ほど前に実家に帰った時は、母親があまりにもうるさかったので、実家におらずに自分の好きなところに出かけたり、東京で夫に会ったりしていたので、帰ってから激詰めされて泣いてしまった。激詰めというのはどういうことかと言うと、要するに「あんたはここが間違ってる!ここがダメだ!どうせ家事とか何もやってないんでしょ!私の言う通りにやりなさい!」みたいな感じだ。とにかく私をdisった後に、こうしなければならないと説教する。「私をdisってばかりいる」と指摘すると、「disるってねえ、あんたと私は友達じゃ無いのよ!対等じゃ無いからdisってるわけじゃ無い!これは教育なんだ!ダメなところを教育しているんだ!」と始まる。ここまで来ると、完全に心が折れて、反抗する気もなくなる。要するに、母親は実家に帰ってきたなら、自分と話したり、料理を見学して学んで欲しかったのだ。しかし、私がそれをしなかったので激詰めに走ったというわけだ。今回はこれらを全部やっていたのでずっと上機嫌のまま訪問が終了したわけである。

私はずっと母親の機嫌を伺って生きてきた。去年、なぜ私は20歳にもなるのに母親の言う事に全て従って生きているのだろう。他の人はもっと自由にやっているのに。と、突然自我が芽生えてきて、自分の感情に非常に戸惑い、色々な行動を起こしたりした。なぜ、20年間もずっと母親が思うように生きてきたのか、本当に謎に思った。今日でその答えが分かった気がした。母親の言う通りに生きていれば、母親が常に上機嫌だからだった。母親が思う通りに行動しなければ、母親は不機嫌になる。不機嫌というのは単に不機嫌なだけではなく、ヒステリーを起こしたり、私をdisって来たりするということだ。一緒に暮らしているのに、母親がそんな状況だとかなり辛い。それを避けるために私は母親の思う通りに生きていたのだ。

母親の機嫌は私たち子供の生き方だけに止まらず、1日の行動にまで左右される。例えば、母親がパートから帰ってきて、夜ご飯を作っている時に買い忘れたものがあるとする。自分はパートに行って疲れているので、誰か他の人に頼みたい。しかし、子供達は学校や遊びに行っていて1人もおらず、買い物に行かせる人がいないとする。この状況では仕方なく母親は自分で買い物に行き、料理を完成させるのだが、私たち子供が帰って来る時の機嫌は不機嫌ということになる。不機嫌で済むならまだ良いのだが、時には「私ばっかり忙しくてまるでシンデレラの下働きのように家族にこき使われている。私ってなんてかわいそうなのかしら」と始まったり、ずっと文句を言い続けたりする。

しかも、基本的には夜ご飯の時間までには実家に帰っていなければならないという謎ルールがあり、私は母親に許された用事を除いては20歳になるまで毎日夜19時半までには実家に帰るようにしていた。まあそこまでしても料理や配膳の手伝いをしなかったという理由で不機嫌な時もあるのだが…

ちなみに私には兄と弟がいるのだが、私ほど母親の言う事に従って生きていない。というか、2人とも好き勝手やっている。なぜそれが私に出来なくて兄弟には出来たのかという理由は主に2つあると私は思う。まず、母親が不機嫌でも、すぐに部屋に篭ったりして、母親の言うことをシャットアウトする事ができ、ヒステリーにも全く対応しようともしなかった事、それと、実家以外にも自分の居場所を作る事が出来たことだ。実際にこの処世術はとても正しい。私も出来ればそうやって好き勝手生きたかった。ただ、元々の性格や嫌がらせを受けた事などで学校に居場所を作れなかった私にとっては、母親だけが自分の中の絶対の評価軸だった。実際にはその評価軸は大きく歪んでいたのだが、私にとってはそれが全てだったのだ。誰からも評価されない私にとっては母親に評価される事だけが全てだった。それ故に母親の言うことだけを守り20年間も生きてきてしまったのだった。

また、ヒステリーに対する反応というのも難しいところだ。兄弟は、どこかの時点でヒステリーというものは、まともに対応したってどうなるものでも無いことを察したのだと思う。そして、そこからは母親のヒステリーに全く反応しなくなったのだと思う。実際にこれの反応は正しいと私は思っている。ヒステリーというのは、なだめたり、解決策を講じたりしても、一向に収まるものでは無い。治療という観点以外では、放っておくのが1番良い気がする。私はそれに気づくのに実に20年もの月日を費やしてしまったのだ。我ながら、本当に無駄な時間だったなあと思うのだが、分からなかったのだから仕方がない。兄弟には、放っておいた方が良いと言われてもいたのだが、私は実際にその実感を得るまでに実に長い年月を費やしてしまった。

母親がおかしいのではないかと気づいたのは何がきっかけだったのだろうか。やはり、ADHDの投薬治療で、無気力が少しだけ改善され、色々なところに顔を出し、色々な人の意見を聞いた事だと思う。私にも数少ない友達はいたのだが、友達は毒親などというワードも知らないわけで、母親の事を話しても「ちょっと厳しいだけでしょ」とか「親ってそんなもんじゃない?」と言われて終わっていた。それが、ADHDの方や、複雑な家庭環境で育った方達の意見で、典型的な毒親気質だと気づく事が出来たのだと思う。

そういう意味で、私がADHDではないかと指摘し、今通院している病院に紹介してくださった、大学のカウンセリングセンターのカウンセラーさんや、診察してくださっている先生、そして出会えた方達に本当に感謝している。(大学に通えなくなってカウンセリングセンターに相談しに行っていた話は、また別の機会に書こうと思う)そして、やっぱり1番はそんな絶望的な状況を救ってくれた夫に感謝している。

今日は本当に色々な学びがあった1日だった。

母親のことなど

今日は東京に行った。私の両親と夫と私で月に1度、食事をして近況を報告する日だからだ。夫が東京に行く用事があったので、一緒に車で行った。着いて、まず、大学に行って名前や住所の変更手続きをした。戸籍抄本が必要だったりと様々な理由でまだ出来ていなかったからだ。今日出来て良かった。両親と会うまでに時間があったので、しょぼい喫茶店に行った。東京に行く時は必ず行くほど大好きなお店だ。最近は2週間に1回くらい行っている。しょぼい喫茶店に着くと、常連のお客さんが1人いらっしゃった。常連さんとえもいてんちょうさんと3人で本当に色々な話をした。高校の事や、家族の事、結婚の話などなど…

1番心に残った話は、母親のことだ。私の母親は猛烈な過干渉で、私の人生に一々口出ししてくるし、自分の思う人生を歩まないと気が済まない人だ。ずっと一緒に暮らしていたのに、私の気持ちなんて全く理解していないし、何かにつけ私のことを否定する。肯定された覚えはほとんどない。母親のひどいエピソードは、夫と話している時などに、ふと出て来たりするのだが、まだ冷静に振り返ったり、分析する事が出来ないという話をしていた。すると、常連のお客さんが、「まなさんは今、まだ問題の渦中だから見えていないだけで、2、3年後にそれが過去になって振り返ると冷静に見る事が出来るのではないか。」とおっしゃっていて、なるほどと思った。それと、「今はブログに色々なその時々の思いを書き残すと良いのではないか。」とおっしゃっていたので、ブログをまた書いてみることにした。自分の過去の事は結構書いたけど、母親の事はまだあまり書いてなかった気がする。(過去の記事を読み返したわけではないので正確には分からない笑)

最近、夫と話していて、母親がヤバイなと思ったエピソードは、母親が私を自分と同じ中学、高校、大学に入学させようとしていた事だ。当時は何も思わなかったけど、今考えてみると、これはかなりヤバい。母親は中高一貫校の女子校に高校から通っていた。そこは大学附属のような所で、特に問題がなければ、附属の大学に入学する事が出来る高校だった。高校の成績の良い子から学部学科を選ぶ事が出来る。その高校がまだ中高一貫校でその当時は残っていた。私は中学受験をしたのだけれど(自分の意思ではなく)、途中で精神を病んでしまい、まともに勉強が出来なくなってしまった。そこで、母親が自分の母校の中高一貫校に入学すれば、大学まで受験なしで行けて良いのではないかと言い出したのだ。その学校は母親が入っていた時のレベルは結構高かったのだが、少子化や女子校の人気の低迷でかなり偏差値が落ちていた。母親が居た頃は中々良い先生と同級生達に恵まれていたみたいだった。結局、母親のゴリ押しもあり、その中学校に入る事になってしまった。

しかし、その中学校は、私が入学した頃にはもうレベルが相当落ちていて、私立でみんな受験して来たにも関わらず、恐ろしくレベルが低い学校だった。先生方は熱心なのだが、生徒がとにかくひどい。私はそこでかなり嫌がらせを受けたし、こんなに性格が悪い人間が居るのかと思うほど性格がねじ曲がった何人もの女子と出会う事になった。まあ中学校は、大体嫌がらせとかあるし、みんな思春期真っ只中でドロドロしているとは思うのだが…

その中でも、成績の良い、気が合う数人の友達となんとかやり過ごしていたのだが、その子達もやはりその中学校が嫌で、高校受験をすると言い出した。中学3年になってから。私はその友達たちと特進クラスに一緒に行って、仲良くするつもりでいたのでかなり焦った。その子達が居なくなってしまったら、友達もいないし、楽しい事が何もない。そして私は中学3年生の夏、高校受験をする事に決めた。

精神を病んでしまって途中でまともな中学受験をする事が出来なくなった私も悪いのだが、そうなったのならもう諦めて公立の中学校に入れてくれた方がまだマシだったのではないかなあと最近は思う。まあ過去の事なのでしょうがない。

そんな感じで、母親はなんでも自分の思う通りに私の人生を決めたかったのだなあと思った。(本人は私の為を思ってやっているのだし、そう思う人も居るのかな…?)これからも、思い出したら母親のヤバいエピソードを書いていこうかなあと思う。あと日記的なことと、過去の振り返りと…(書くこと多いなあ)

そういえば、今日、両親と夫と私で食事した時も、「あなたはおかしいからね。」と3回くらい言われたなあ…